姉崎地区(児童生徒向け)

AN-01 姉埼神社(あねさきじんじゃ)

姉崎神社の写真

延喜式神名帳(えんぎしきしんめいちょう、927年にまとめられた全国の神社一覧、上総国は5社のみ)に記載される古い神社です。島穴神社の祭神とは夫婦で、夫の帰りを待ちわびた姉埼神社の祭神がこれを嘆いたとされ、境内や周辺では「待つ」と同音の「松」を避ける風習があり、正月も門松は使わず、門榊(かどさかき)を用います。現在はなくなっていますが、源頼朝が鎌倉へ向かう途中、社前で馬をそろえて戦勝祈願したことから、流鏑馬(やぶさめ)神事(しんじ)が始まったと伝わります。神社の境内(けいだい)には古墳時代の円墳が3つあります。

AN-02 姉崎天神山古墳(あねさきてんじんやまこふん)

姉崎天神山古墳発掘調査写真

全長130メートルで、市内最大、南関東でも10番以内に入る大きさの大型前方後円墳です。発掘(はっくつ)調査が行われていないため、はっきりわかっていませんが、前方部が平坦かつ細長く、後円部に比べて低い点や、平地を見渡す台地の先にあることから、古墳時代前期の4世紀前半につくられたとみられます。古墳の真ん中あたりには、菅原道真(すがわらのみちざね)を祀(まつ)った社(やしろ)があります。

AN-03 鶴牧藩庁跡

鶴牧藩庁跡の写真

鶴牧藩は、江戸時代の終わり1827年に水野忠韶(ただてる)が安房国北条藩(あわのくにほうじょうはん)から領地がかわったにより成立しました。それから、忠実(ただみつ)、忠順(ただより)と明治4年(1871)の廃藩置県まで3代続きました。藩庁は現在の姉崎小学校敷地内の陣屋(じんや、大名の住居や役所が置かれた建物)に置かれ、周辺には武家屋敷が広がっていました。忠順が創設した藩校修来館(しゅらいかん)では、30年の歳月をかけて中国の歴史注釈書(ちゅうしゃくしょ)の改訂を行い、鶴牧藩版・史記評林(しきひょうりん)を完成させました。

AN-04 妙経寺(みょうきょうじ)

妙経寺の写真

室町時代の中ごろ、日暁上人(にちぎょうしょうにん)が開いたと伝わる古いお寺です。16世紀後半、関東にきた徳川家康から領地として10石を寄進(きしん)されました。江戸時代に入ってからも、徳川光圀(とくがわみつくに)や小林一茶(こばやしいっさ)が旅の途中に立ち寄ったことで知られています。境内地には、鉄砲を誤って射ってしまった事件で遠島(えんとう、この時代の刑罰の一つ)になった主人を救った義僕市兵衛(ぎぼくいちべえ)の墓があります。また戊辰戦争(ぼしんせんそう)で亡くなった徳川義軍戦没者(ぎぐんせんぼつしゃ)の墓もありました。発掘調査では、貝塚や古墳があったことがわかっています。

AN-05 二子塚古墳(ふたごづかこふん)

姉崎二子塚古墳の写真

標高5mほどの高台にある大型前方後円墳で、全長は約110mあります。前方部と後円部には2か所で埋葬施設が見つかっています。そこからは、鏡、玉類、武具、馬具などが出土しています。古墳の中段と下段には円筒埴輪(えんとうはにわ)が列になって置かれていたとされます。出土した物の特徴から、5世紀前半に造られた古墳と考えられます。また、呪術(じゅじゅつ、まじないのこと)的な模様が彫られた石枕(いしまくら、遺体の頭部を固定するために使われたとされる)は、国の重要文化財に指定されています。

AN-06 椎津城跡(しいづじょうあと)

椎津城跡の写真

当時の道や水路で重要な場所に位置する戦国時代の城で、市内最大級の規模です。この城を巡っては、戦国時代に足利氏、武田氏、里見氏、北条氏らによる激しい争奪戦が、幾度となく繰り広げられました。こうした攻防の歴史は県内にも例がなく、房総の戦国時代の歴史を語る上で欠くことのできない城です。高さ1mを超える土塁や、深さ2 mに及ぶ空堀などが残り、当時の城の特徴を知ることができます。今でもこの地域では、戦国時代の椎津城主・椎津小太郎に由来するお盆の行事「椎津のカラダミ」が行われています。

AN-07 六孫王原古墳(ろくそんのうばらこふん)

六孫王原古墳の写真

台地の奥にある前方後方墳で、全長約45 mあります。後世に大きく壊されていますが、後方部には凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)を使った横穴式石室(せきしつ)がつくられ、副葬品として金銅製馬具(こんどうせいばぐ、金メッキ製の馬につける道具)の破片、直刀片、鉄鏃(てつぞく、鉄製のやじり)、刀子(とうす、小刀のこと)が見つかっています。また、後方部の頂点には須恵器(すえき、古墳時代以降の硬い土器)の大きな「かめ」が置かれていたようです。7世紀後半に造られたと考えられますが、このころの前方後方墳は全国的に珍しく、異例な存在です。