市原地区(児童生徒向け)

IC-01 宝積寺(ほうしゃくじ)

宝積寺の写真

現在は、木更津市の曹洞宗眞如寺(しんにょじ)の末寺(まつじ)ですが、寺の言い伝えでは1336年から1340年ごろの足利基氏(もとうじ、足利尊氏の四男)が開いたとされる古いお寺です。寺紋(じもん、寺のしるしのようなもの)は、「丸に二引き両」という足利氏の紋(もん)です。敷地内には、1850年、月出の宮大工 藤右衛門(とうえもん)によって建てられた山門があります。また、江戸時代中ごろの石造千手観音立像(せきぞうせんじゅかんのんりつぞう)などがあります。

IC-02 八幡神社(はちまんじんじゃ)

市原八幡神社の写真

市原市市原1番地にあります。八幡神社の祭神(さいじん)は誉田別尊(ほんだわけのみこと、八幡神のこと)です。神社の創立はわかっていませんが「総社(そうじゃ)八幡宮」であったとも伝えられ、八幡宿にある飯香岡八幡宮と密接な関係にあるとされます。柳楯神事(やなぎだてしんじ)では、当地の司家(つかさけ)がつくった柳楯が八幡宮に到着しなければ、神輿(みこし)の式典が始められないしきたりになっています。境内末社(まっしゃ、神社敷地内の小さいな神社)には八坂神社があり、祭神には牛頭天王(ごずてんのう)が祀(まつ)られています。

IC-03 阿須波神社(あすはじんじゃ)

阿須波神社の写真

祭神である阿須波神(あすはのかみ)「延喜式神明帳」(えんぎしきしんめいちょう)では宮中守護の神とされ、井戸をつかさどる神と考えられています。境内には、「庭中の阿須波の神に小柴さし吾は斎(いわ)はむ帰り来までに」と九州に出向く防人(さきもり、辺境警護にあたった兵士)が、無事に帰れることを阿須波の神に祈ってよんだ歌を刻んだ万葉集の歌碑(かひ)があります。「柳楯神事」では道中の安全を祈願した後、古代道があったとされる場所と同じ道を五所に向かいます。

IC-04 古代道路跡(こだいどうろあと)

古代道路跡の写真

館山道や五所小学校の建設工事前に発掘調査したところ、両側に溝を持つ古代道路跡が見つかりました。当時、都とすべての国府は官道(かんどう)で結ばれ、途中には駅家(えきか・うまや)が置かれました。古代道路跡は市原台地上でも確認されていますが、阿須波神社周辺には江戸道と呼ばれる細い道もあることから、重要な街道であり続けていたことがわかります。柳楯神事では、この古代道近くを通り五所へ向かいます。

IC-05 光善寺(こうぜんじ)

光善寺の写真

光善寺薬師堂(やくしどう)には室町時代の薬師三尊像(やくしさんぞんぞう)が安置され、県内最古の石灯篭 (いしどうろう、15世紀前半の応永期年間、市指定文化財)などがあります。境内は「光善寺廃寺」(こうぜんじはいじ)と呼ばれる遺跡で、古い瓦のが見つかったことから、国分寺以前の国府寺院(こくふじいん、上総国の中心的な建物)がここにあったという説があります。また境内に置かれた影向石(ようごうせき)には、行基(ぎょうき)の説法を聞きに、八幡神(やはたのかみ、はちまんしん)が降臨(こうりん)したという伝説があります。これがこの地域に今も続く柳楯神事の発祥に関わるとされています。

IC-06 市原城跡(いちはらじょうあと)

市原城発掘調査の写真

江戸時代に成立した軍記物『関八州古戦録』(かんはっしゅうこせんろく)に、北条氏が里見氏を攻めた際、市原城主忍(芦野)丹波守(おしたんばのかみ)の舎弟民部少輔(しゃていみんぶのしょうゆう)が里見方についたと記載されていますが、くわしくはわかっていません。城の範囲も市原台地突端部(とったんぶ)を想定する説や、この地域の地名である「要谷(ようがい)」周囲に限定する説などがあります。一部を発掘調査したところ、多くの人骨等が見つかり、戦国時代のたたかいの様子などがわかりました。

IC-07 庚申塔(こうしんとう)

庚申塔の写真

庚申塔とは、干支でいう庚申(こうしん)の夜に宿に集まって夜を明かすという庚申信仰(こうしんしんこう)に基づいた石造物です。庚申の夜に、人が寝ると体内から三尸(さんし)という虫が天帝に日頃の罪を報告しに行くとされ、寝ずに夜を明かした方が良いという道教の教えから、室町時代以降全国に拡がりました。この庚申塔には1661年につくられたという「見ざる・言わざる・聞かざる」として三猿が彫られています。