国分寺台(児童生徒向け)

KD-01 祇園原貝塚・瓦窯跡(ぎおんばらかいづか・がようあと)

祇園原貝塚発掘写真の写真

縄文時代の終わりごろ(今から4000年前)から1000年間続いたムラです。100体を超える人骨やまつりを行った大型の建物の跡などが見つかりました。竪穴建物(たてあなたてもの)の跡(あと)などのくぼ地を除くと貝層の密度は高くありません。これは奈良時代にこの場所で国分尼寺(こくぶんにじ)が作られた時に、貝塚が崩されたことが原因と考えられます。貝塚や土器のかけらが見つかる周辺の雑木林では、平安時代のものとみられる、国分寺の瓦を補修するための瓦を焼いたかまどのあとが見つかっています。

KD-02 上総国分尼寺跡(かずさこくぶんにじあと)

上総国分尼寺跡写真

741年の聖武天皇の詔(みことのり)によって、全国60か所あまりに建てられた尼寺(にじ、女性の僧が修行をするところ)ですの一つです。正しくは法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)と呼びます。寺の建物や敷地の大きさは全国最大規模です。発掘調査によって古代寺院の全体の様子が初めて明らかになった国分尼寺跡として、主要部は国の指定史跡(しせき)として保存されています。近くには、史跡上総国分尼寺跡展示館と中門・回廊(かいろう)復元建物があります。

KD-03 上総国分寺跡(かずさこくぶんじあと)

上総国分寺跡の写真

741年、仏教の力で国を安定させようとした聖武天皇が全国に造るように命じた僧寺(そうじ、男性の僧が修行をするところ)と尼寺(にじ、あまでら)からなる寺で僧寺の正式名称は、金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)です。南大門(なんだいもん)・中門(ちゅうもん)・金堂(こんどう)・講堂が南北に並び、回廊(かいろう)内東側に七重塔(しちじゅうのとう)を配置するのが特徴で、屋根には平城宮を模した最先端の文様の瓦が使われました。塔跡には巨大な礎石(そせき、柱を立てるための土台の石)が残り、寺の中心部は国指定史跡(しせき)として保存されています。

KD-04 神門瓦窯跡(ごうどがようあと)

神門瓦窯跡の写真

上総国分僧寺跡の南西側の斜面にあり、現在は農業用のため池に面しています。5つの瓦窯跡(がようあと、かまどのあとのこと)が見つかりましたが、かまどの構造はよくわかっていません。出土する平瓦の凸面に格子模様(こうしもよう)の叩き目を残すのが大きな特徴で、8世紀の終わりごろから9世紀初めには窯(かまど)で瓦がつくられはじめ、国分寺の補修瓦(ほしゅうがわら、古くなった瓦を新しく入れ替えるための瓦)を焼いていました。

KD-05 神門5号墳(ごうど5ごうふん)

神門5号墳の写真

前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)の形をしていますが、前方部が短く、近畿地方に古墳が出来はじめた時期の古墳に似た形をしています。3世紀前半に5号墳、4号墳、3号墳の順につくられ、東日本でも最も古い時期の古墳として知られます。この神門古墳墳の近くの中台遺跡からは、近畿・東海・北陸地方の流れをもつ土器が多く見つかたっことから、この古墳のあたりが邪馬台国時代における東日本の交流拠点であったことがわかります。

KD-06 稲荷台1号墳(いなりだい1ごうふん)

稲荷台1号墳の写真

直径27mの円墳(えんぷん)で、中央の埋葬(まいそう)施設から見つかった「王賜」(おうし、王からいただいたという意味)の銘文(めいぶん)がはめこまれた鉄剣は、国内で製造された銘文の刀剣としては最古のものとされます。一緒に出土した須恵器(すえき、古墳時代の硬い土器)の年代から5世紀中頃に造られ、畿内の大王(おおきみ)に武人として仕え、その功績により鉄剣を授かったと考えられます。古填は調査後に消滅しましたが、現地には3分の1の大きさで復元した記念広場があります。

KD-07 諏訪神社(すわじんじゃ)

諏訪神社の写真

神社縁起(じんじゃえんぎ、その神社の由来がわかるもの)によれば、1521~1528年頃に信濃村上氏(しなのむらかみし、室町時代後期、今の長野県北部を治めた戦国大名)が当地の領主になった際、信遭国諏訪の上下諏訪神社を祀る(まつる)ことを願い、この地に分祀(ぶんし、本社と同じ神を別の神社にまつること)したと伝わります。境内は天神台遺跡・諏訪台古填群のなかにあり、市内最古の7000年前の貝塚が地中に一部残るほか、社殿向かって右側に諏訪台10号墳、左側に諏訪台9号墳が現存し、9号墳は江戸時代に出羽三山信仰(でわさんざんしんこう、江戸時代に盛んだった民間の信仰の一つ)の供養塚(くようづか)に用いられました。