ここまでわかった市原の遺跡2 上総国分僧寺展12

更新日:2022年04月18日

そして地域の寺に

壁にはいくつかの写真と説明文のパネルが掛けられ、グレー色の台の上には皿と青みのある小物が置いてある写真

展示風景 このブースでは、近世の復興事業について解説します。

 現在遺る鎌倉期の金剛力士像が、最初から国分寺の仏像として伝来したのであれば、室町期以降の衰退時も、一部の堂宇は維持されていたことになります。
 しかし伝承による国分寺の歴史は、「平将門の乱で焼亡し、江戸時代にようやく復興した」とされ、著しく衰退した時期が長く続いたことを示しています。
 江戸時代になると、真言宗の僧快応(かいおう)の勧進により、国分寺の復興が始まり、正徳6年(1716年)に主要建物が落成しています。
 それからは「医王山清浄院国分寺」と称され、現在の国分寺につながっています。
 江戸時代は寺請制度が整備された時代です。
 復興後の国分寺も、葬儀などの行事を中心に、惣社村の人々の生活に深く関わってきました。
 人々のための、地域の寺として生まれ変わったのです。

右側に大きな木があり、正面奥に古びた建物、手前両脇に石灯籠がある写真

国分寺薬師堂
(正徳6年(1716年)落成 市指定 宗教法人国分寺蔵)
 江戸時代の国分寺本堂で、薬師如来を本尊とする。
 建立は惣社村・五井村の大工が中心となったが、武射郡飯櫃村・牛熊村などの大工も途中から加わり、細工を担当したことなどが、部材の墨書から分かっている。

土が掘られたところたら、レンガ色の皿や木枠のようなものの一部が出ている写真

地鎮遺構(宝永4年ころ)

 薬師堂の基壇から、建立直前に行われた地鎮の跡が発見された。
 基壇の下位からは宝永4年(1707年)に噴火した富士山の火山灰が発見されているので、地鎮祭は宝永4年直後に執り行われたのだろうか。
 棒5本を並べ、銭13枚を置き、カワラケ7枚を重ねている。
 地鎮祭に用いた道具をまとめて納めたのだろう。

地面が四角く掘られ、底からいくつもの茶色い棒のようなものが出ている写真

梵鐘鋳造遺構(元禄から正徳期)

 旧寺院地の東部で、近世の梵鐘鋳造遺構が発見された。
 元禄から正徳期にかけての国分寺復興の際に造られたものであろう。
 梵鐘などの大型製品は、鋳物師が遠方から出張し、発注者の近所で鋳したことがわかる。

白い台の上に黄土色の皿4枚が置かれ、手前に四角く穴の空いた丸い寛永通宝が13枚並べられている写真

地鎮用具(カワラケ・寛永通宝)

 宝永4年ころの埋納と考えられ、使用年代が明確な重要資料である。

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