ここまでわかった市原の遺跡2 上総国分僧寺展1

更新日:2022年04月18日

上総国分僧寺展について
 上総国分僧寺跡は、全国で初めて、伽藍地の外側に寺院地が広がっていた事実と、寺院経営の附属施設的の全貌が明かにされた、古代寺院研究史に残る重要遺跡です。
 今回の特別展は、豊富なパネルと貴重な出土遺物から、国分寺の謎に大胆に迫りたいと思います。
 上総国分僧寺の誕生から始まり、度重なる衰退や復興の画期が見えてくるものと思います。

 展示は2010年6月30日をもって終了いたしますが、展示内容は当サイトで連載していきます。
今回はメイン会場前、パネル展示のブースからお伝えいたします。

1 国分寺の建立

壁に「国分寺の建立」と見出しがあり、その下に地図や写真や説明文のパネルがいくつも掛けられている写真

展示風景。このブースは特別展導入のためのパネル展示です。

奥に建物がみえ、手前に金色のきらびやかな装飾のある建物が見える写真

 わが国の古代仏教は、個人の救済を目的とする今日の仏教と違い、国家を鎮め守護することを主な役目にしていました。
 聖徳太子で有名な推古天皇の時代頃から、仏教による国家鎮護が国策とされ、都や周辺地域に国立寺院が造られるようになりました。
 中央政府が律令国家体制を目指すようになると、その方針はさらに強化されました。
 奈良時代には、都で花開いた国家仏教を地方に広める政策がとられます。
 朝廷は諸国に国師を任じ、仏教指導に当たらせました。諸国に寺を造らせ、国家を守護する経の書写も度々命じています。
 このような政策の集大成として、天平13年(741年)、「国分寺建立の詔」が発せられたのでした。
 国分寺の始まりです。

房総の初期寺院

 仏教は古墳時代の終わり頃に伝わり、蘇我氏などの中央豪族に受容されました。やがて朝廷も国立寺院を造りはじめ、7世紀中頃からは地方の豪族も寺造りを始めるようになります。
 大型古墳に代わって、寺院の造営が新たな権威の象徴となったのです。
 房総でも、7世紀後半の木更津市大寺廃寺(上総)と栄町龍角寺(下総)をはじめとし、国分寺建立以前から多くの寺院が建てられました。
 これらの瓦には畿内官寺の文様が採用され、造寺が中央の影響下に進められたことが分かります。
 多くが古墳の近くにあることから、古墳を築いてきた伝統的な地域権力が、仏教を受容したもと考えられます。
 特に上総域は、畿内色の強い古墳が存在することから、官寺的な寺院の導入がうなづけます。

山田寺系瓦

背景が白で、真ん中に花の模様がある丸瓦の写真

龍角寺
(栄町 レプリカ 原品は龍角寺蔵)

背景が白で、中央に花の模様がある丸瓦、縁部分が7割ほど掛けている写真

今富廃寺(市原市)

背景が白で、真ん中に花の模様がある丸瓦の写真、縁部分7割ほどと正面が削れている写真

光善寺廃寺1

川原寺系瓦

背景は薄い青で、花の模様がある丸瓦、縁にギザギザ模様があり半分以上欠けている写真

上総大寺廃寺(木更津市)

中央に花の模様がある丸瓦、縁にギザギザ模様があり欠けている部分がある版画のようなイラスト

武士廃寺(市原市)

背景は白で、花の模様がある丸瓦、縁にギザギザ模様があり3割ほど欠けている写真

光善寺廃寺2

紀寺系瓦

背景は白で中央に花の模様がある丸瓦、縁に細かい模様があり、半分近く欠けている写真

二日市場廃寺(市原市)

房総の初期寺院分布と瓦についてのイラスト

房総の初期寺院分布と瓦

いちはらの初期寺院分布イラスト

いちはらの初期寺院分布図

国分寺の建立

前後に装飾のある黒い帽子を被り、赤い着物を着てどこかを見つめる座った男性のイラスト

 地方に寺院が増えてくると、朝廷は国家仏教の普及策を諸国に拡げます。
 天平9年(737年)には釈迦三尊像の造像と大般若経の書写を、天平12年(740年)には法華経の書写と、七重塔の建造を命じています。
 そして天平13年(741年)、国分寺建立の詔に至るのです。
 国ごとに寺を造る政策は、唐の制度に習ったものと言われています。
 しかし僧寺・尼寺をセットで建てようというのは、わが国独自の構想です。
 これはまさに国家的な大事業で、諸国にとっても経験が無く、一朝一夕に成し遂げられるものではありませんでした。
 上総国分寺の落成も、建立の詔から実に20年を経た頃のことと考えられています。

国分寺建立までの流れ

676年 諸国で金光明経と仁王経を説かせる。
685年 諸国の役所ごとに仏舎を造り、仏像・経を置かせる。
694年 諸国に金光明経を置く。
大宝 2年(702年) 諸国に国師を置き、仏教指導に当たらせる。
神亀 5年(728年) 諸国に金光明最勝王経を配る。
天平元年(729年) 長屋王の変
天平7年〜9年(735年〜737年) 天然痘の流行
天平 9年(737年) 諸国に丈六釈迦三尊像を造り、大般若経を書写させる。
天平12年(740年) 諸国に法華経を書写し、七重塔を建てさせる。
天平13年(741年) 藤原広嗣の乱。
これを鎮めるため、諸国に観世音菩薩を造らせ、写経させる。

国分寺建立の詔

 朝廷は、地方への国家仏教の浸透を目指し、以前から政策を実施してきました。大規模な疫病や反乱などもあり、列島規模での国家鎮護の実施は重要な課題でした。
 国分寺建立の詔は、一連の政策の集大成として理解できます。

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