ここまでわかった市原の遺跡 西広貝塚展8
他地域との交流

展示風景 このブロックでは、遠くから運びこまれた品をそろえ、西広貝塚を取りまく物流について考えます。
西広貝塚から見つかった遺物の中には、ムラの近くではとても入手することのできないモノがあります。
道具やアクセサリーの材料となる石や貝などです。
貝層の内容物を丹念に調べた結果、これらも数多く見つかりました。
石器の材料となる石は、房総半島では基本的にあまり手に入れることができないので、ほとんどが比較的遠隔地からもたらされたものと考えられます。
これらは、北関東・東北地方南部・信越地方などからのものであることが、石材の肉眼鑑定をおこなった結果わかっています。
石鏃などに多用される黒曜石は、今後理化学的な分析によって産地を特定することも可能ですが、現段階では、伊豆諸島神津島もしくは信州方面からのものと推定されます。
新潟・富山方面からもたらされたとみられるヒスイは、西広貝塚では、原石・荒割りしたもの・穴あけ途中のもの・製品と、各種のものがみられます。
一方、貝の腕輪(貝輪)の材料では、「オオツタノハ」という伊豆諸島南部を原産地とするものが15点見つかりました。この数は、一つの遺跡の出土数としては最多です。
また、土器にも他地域との交流を示すものがあります。展示資料は、九州地方の「阿高式」に類似すると言われている土器です。器の形態や文様構成、胎土(粘土)などが西広貝塚からみつかる他の土器とは全く異なります。
これらの事象は、西広貝塚が「物資交流の要」の役割を果たしていた可能性を示しています。
「南房総の貝材」は、他の資源との重要な交換財であったのかもしれません

浅鉢形土器(阿高式類似)4次調査
オオツタノハ製貝輪

オオツタノハは、縄文時代に貝輪の材料となった特殊な貝です。
この貝は、日本では鹿児島の南のトカラ列島付近の島々と、伊豆諸島の南部の島にしかいない極めて珍しい貝です。にもかかわらず、貝輪は広く東日本を中心に分布し、最北は北海道の洞爺湖近くの遺跡からも見つかっています。
最近の調査では、この貝が現在も八丈島に生息することがわかりました。
伊豆大島には、この貝を腕輪に加工した縄文時代の遺跡が、三宅島には弥生時代に貝を捕って貝輪に加工した遺跡が見つかっています。
また、千葉・茨城には、この貝の腕輪がまとまってみつかる遺跡が幾つかあり、それらをつないでいくと、この貝が運ばれたルートを推定することができます。
西広貝塚からは、一遺跡としては日本最多の15点の貝輪がみつかっています。
どうやら西広は、その重要なルート上にあったようです。
西広貝塚に持ち込まれた品々

黒曜石(伊豆諸島神津島・信州)

大珠(ヒスイ 新潟・富山)

垂飾(ヒスイ 新潟・富山)

ヒスイの加工工程
左から、 原石、あら削り、穴あけ途中(2点)、製品

チャート(北関東か)

結晶片岩系岩石(北関東か)

貝輪と垂飾(オオツタノハ 伊豆諸島南部・三宅島か)

阿高式類似の土器(九州地方)
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更新日:2022年04月18日