八幡御墓堂遺跡(近世)

更新日:2022年04月18日

近世

八幡御墓堂遺跡 やわたみはかどう

八幡御墓堂遺跡出土の鉦吾の写真

八幡御墓堂遺跡出土の鉦吾(しょうご) 江戸時代
称名の際に撞木(しゅもく)で叩き、音色を出す仏具

 遺跡はJR八幡宿駅の東口に面する中世の低地遺跡ですが、その一部は室町期から現代まで真言宗寺院の墓地として利用されてきました。
 中世後期の八幡は京都醍醐寺の重要な所領であり、その経営のために醍醐寺の官吏が派遣されています。
 市原八幡宮の別当寺だった若宮寺は、こうした経営拠点が発展した寺院と考えられます。
 若宮寺は、上総国における真言密教の活動拠点として、大いに栄えたのでしょう。
 近世には菊間村若宮八幡宮の別当寺も兼ねていたことが文献から確認できますが、これも中世以来の慣例と考えられます。しかし江戸時代の間に衰退したようで、19世紀には無住化し、やがて廃仏毀釈運動で廃されています。
 若宮寺は真言宗豊山派に属し、霊応寺とも称しました。境内地はJR八幡宿駅の構内及び西口ロータリーを中心とする一帯で、駅の東口にあたる地域に墓所を構えていました。
 ちなみに遺跡名は「御墓堂前」という地名に由来するものです。
 この「御墓堂」は、小弓公方足利義明の埋葬地とする説もありますが、むしろ若宮寺の僧侶埋葬地と理解した方が自然です。
 室町期(15世紀前葉)に若宮寺の中興開祖となる僧侶の大型五輪塔が造立され、その周囲に後代僧侶による供養塔(五輪塔、宝篋印塔、無縫塔)の造立が続いたのでしょう(大型五輪塔はやがて倒壊、水没しましたが、近代に掘り出され、足利義明夫妻の墓として安置されていました)。
 若宮寺の廃絶後、末寺の満徳寺が御墓堂墓地の管理を行い現代に至りますが、近年の土地区画整理事業で駅前から移転しています。この際、発掘調査を実施し、多量の陶磁器、密教法具や鉦吾などの仏具が出土しました。

引用・参考文献

財団法人市原市文化財センター2005年『市原市文化財センター研究紀要V』 90ページ・96ページ・97ページ・99ページ・117ページ〜121ページ

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