能満分区貝塚(縄文)

更新日:2022年04月18日

縄文時代後期

能満分区貝塚 のうまんぶんく

文中図1と表記されている現地踏査による貝層分布範囲の地図の写真

図1 現地踏査による貝層分布範囲

文中図2と表記されている地下レーダー探査による貝層分布範囲の地図の写真

図2 地下レーダー探査による貝層分布範囲

 能満分区貝塚は、市内能満2,106番地ほかに所在する縄文時代後期を主体とする貝塚遺跡です。この遺跡の周辺には、小田部遺跡・烏掘込貝塚・小谷吹上遺跡など小規模な貝塚を伴う中期の遺跡が多く、また北約1キロメートルには、イノシシ形土製品を出土して有名となった中期末から晩期中ごろの集落遺跡である能満上小貝塚があります。
 能満分区貝塚は、これまでに本格的に発掘調査されたことがありませんでしたが、昭和50〜60年代には、畑地の中に貝殻が散布する状況が容易に目視でき、その広がりからいわゆる馬蹄形貝塚であると認識されていました。
 平成元年(1990年)、市原市では市内の重要遺跡調査の一環として、二箇所の貝塚の測量・確認調査をおこないました。一つは、山倉天王・堂谷貝塚、そしてもう一つが能満分区貝塚でした。調査では、ほとんど貝層部分を発掘せずに、貝塚の規模や様子をとらえる方法をとりました。発掘によって貝層を掘削することは、部分的とはいえ貴重な遺跡を壊すことになると考えたからです。調査に採用した方法は、「地下レーダー探査」と呼ばれるもので、地表から地下に向けて電磁波を放射し、地下から反射をとらえることによって、地層の変化や反射体の分布を断面的に探るものです。地下に空洞部が存在する遺跡や、周囲の地層とは大きく異なる物質が埋まっている遺跡には特に効力を発揮します。したがって、貝塚のように土層とは異なる貝層が広く・厚く分布する遺跡では、その範囲やおよその厚さを推定することができるのです。
 調査の結果わかったことは、この貝塚の貝層が概して薄いものであること(20〜30センチメートル程度の混土貝層や混貝土層)、さらに畑の耕作や植木の植え替えなどによって、かなり攪乱されてしまっているということでした。確認調査では、目視による見かけ上の貝層分布図(図1)を作成しました。これによると、貝塚は南北130メートル・東西150メートル、開口部を南東方向にもつ馬蹄形状をしたものであることがわかります。しかし、地下レーダーの照射は、部分的にしか厚い堆積の貝層をとらえておらず、これらは竪穴住居跡や土坑内を主体としたものであると推定されました(図2)。
 確認調査では、遺跡全面にわたって、大まかに地区を分けながら遺物の表面採集をおこないました。これによると遺跡は概ね中期の終わりから晩期初頭におよぶものであることがわかりました。貝層自体は後世の攪乱などを受け、やや希薄なものになってしまっていますが、遺跡内には多数の遺構があり、その中には比較的良好な貝層をもつものがあるのでしょう。能満分区貝塚は、この一体を代表する長期間存続した大規模集落であったとみられます。

財団法人市原市文化財センター 1994年 「12. 能満分区貝塚」『市原市文化財センター年報 平成元年度』

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