018菊間手永遺跡の弥生時代の人骨?

更新日:2022年04月18日

近藤 敏

遺跡所在地

菊間

時代

弥生時代中期〜後期

 菊間手永遺跡は、市原市菊間終末処理場建設に伴い、手永貝塚として昭和47年から48年かけて調査されました。調査当時は縄文時代後期の貝塚として、多数の埋葬人骨群が検出され新聞報道もあり、大変注目されました(註1)。
 縄文時代の貝塚が大規模な環状貝塚であったため、縄文時代の集落が廃絶した後も貝塚の貝層が残り、貝塚の貝が弥生時代には台地全体に拡散していたようです。
 貝塚の貝は弱酸性の雨の水分により、二酸化カルシュウムとなって周辺土壌に溶けだして、酸性土壌を中和します。また埋まっている骨などに付着浸透して、骨を固化し化石化を促進して遺存状態を大変良くします。そのため貝塚の出土遺物は多様で情報量が非常に多くなります。
 菊間手永遺跡では、縄文時代の貝層が中世にも影響して、台地上でありながら、方形区画の15世紀頃の墓域の埋葬人骨まで数多く残すことになりました。
 その中で弥生時代025号住居跡には、右横臥左足弱屈折の男性人骨が北から52度西に傾いた頭位置で、ほぼ北東方向の竪穴住居跡の地床炉から奥に埋葬されていました(註1、342ページ第193図下)。報告では025号住居跡の主軸とほぼ直交する埋葬方向のため注目しましたが、弥生時代とする確証は無く、とりあえず中世時期としておきました。
 市原市内の調査例の増加のなかで、山田橋大山台遺跡では、弥生時代後期竪穴住居内に木棺土坑墓が重複する調査例が確認されました(註2)。
 山田橋大山台遺跡には大規模貝塚がありませんので人骨の検出はありませんが、竪穴住居跡内に木棺土坑を配置する、36竪穴と2号木棺土坑、71号堅穴と3号木棺土坑、29号堅穴と2号方形周溝墓主体部の3例が検出されました(註2、95ページ第65図上・143ページ第101図上・190ページ第136図)。
 大山台遺跡の3例についても、埋葬方向が住居跡主軸におおよそ直交しており、同様な事例が一遺跡で3例確認されたことになります。これらから菊間手永遺跡の事例も全くないことではないことがわかりました。
 しかしこれらの事例研究は少なく、これからの課題であると言えるでしょう。また人骨が残っていますから骨一部から、放射性炭素(C14)による年代測定という手段もありますが、考古学的には墓制度の研究ということになります。

平成21年1月頃の菊間手永遺跡とその周辺の上空からの写真

現在(平成21年1月頃)の菊間手永遺跡とその周辺
手遺跡は菊間遺跡群の一部です。菊間遺跡群は弥生時代の大集落として、後に菊間の国造の母体になると考えられています。

注釈

(註1) 近藤敏ほか1987菊間手永遺跡 財団法人市原市文化財センター調査報告書第23集
(註2) 大村 直ほか2004市原市山田橋大山台遺跡 財団法人市原市文化財センター調査報告書第88集

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