019萩ノ原遺跡の追加資料

更新日:2022年04月18日

北見一弘

遺跡所在地

上高根

時代

奈良・平安時代

はじめに

今回の内容は、今から30年以上前に調査・報告された、萩ノ原(はぎのはら)遺跡の画像記録と遺物の紹介です。
 なぜ、ひと昔前に報告されている遺跡について今触れるのか。
 それは以下の理由によります。
 きっかけは、当埋蔵文化財調査センターで、平成22年3月7日~同年6月30日の期間で開催の、『上総国分僧寺展』の準備作業でした。
 この展示で、「ムラの寺」とういうセクションの展示遺物及びパネル画像の選定を行うにあたり、萩ノ原遺跡の資料に対し2つの作業を実施したところ、僅かですがこれまで公表されていない有用な情報があることが分かりました。

作業の内容

 この展示にあたり、行った作業の概要は以下のようになります。

  1. 萩ノ原遺跡出土土器の一部、207点を対象に、墨書土器の同定を目的として赤外線撮影し、デジタル画像で保存する。
  2. 調査中の記録写真のうち、報告書未掲載のものを含む39枚をデジタル化する。ただしこの際、フィルムにキズやゴミが付着し、画像の状態が良好ではないものについては、画像編集ソフトにより加工を施し、未加工のオリジナルデータとは別に保存する。

萩ノ原遺跡

萩ノ原遺跡は、養老川中流左岸の標高90m前後の台地上、市原市上高根字萩ノ原にあった遺跡です。
 昭和51年(1976)南総ゴルフ場増設工事に先立ち、日本文化財研究所が発掘調査しました。
 遺跡の存在自体はこれに先立つ昭和39年(1964)に、当時市原市内の古墳を調査していた武田宗久氏(当時千葉県立千葉高等学校教諭)と南総郷土文化研究会会員のもとに、地主から耕作中に採集された瓦塔片が届けられたことを契機に、仏教関連遺跡として知られることとなりました。
 発掘調査後は、昭和52年(1977)に報告書が刊行されると、いわゆる「村落内寺院」として学会で取り上げられるようになり、現在も東国における8世紀後半から9世紀の民間仏教のあり方を検討するために欠かせない遺跡となっています。

作業の結果

 作業により得られた情報は、次の5つです。
 報告書の写真には、基壇の近景写真があり、ここで示した全景写真を含め、幾つかの写真でこの基壇位置が確認できます。

第8号住居址出土の土師器坏底部外側に残る墨書の写真、詳細は右記

1. 第8号住居址出土の土師器坏底部外側に残る墨書です。

 右側に「寺」の文字があることは分かっていましたが、左側の墨書が、縦書きの2文字として理解できそうです。
 上は「佛」と見えますが、下は判読できません。

第8号住居址出土の土師器坏底部外側に残る墨書の写真、詳細は右記

2. 第8号住居址出土の土師器坏底部外側に残る墨書です。
 報告書では、墨書土器としては認識されていますが、図や写真は掲載されていません。
 縦書きで2文字みとめられますが判読できません。

第7号住居址出土遺物の土師器坏底部外側に残る墨書の写真、詳細は右記

3. 第7号住居址出土遺物の土師器坏底部外側に残る墨書です。
 報告書では1文字で「寺」としていますが、その上にもう1文字見え、縦書きの複数文字になりそうです。
 上は「子」でしょうか。
 下は「寺」とされていますが、別の文字で、しかも2文字に分かれるのかもしれません。

2号基壇の調査風景の写真、詳細は以下

4. 2号基壇の調査風景です。
 中央の方形に小高く見える部分が建物の基壇です。
 礎石などは残っていないため、この基壇上にどのような建物が建っていたかは明確になっていません。
 ただ、基壇に掘れられた穴から、鎮壇具とみられる鉄刀が、切先を上に直立するといった特殊な状態で出土していることから、他にもう1基見つかっている基壇に建っていた礎石建物が、火災で焼けた後を受ける仏堂として理解されている遺構です。

 画像中に、数多く点状に見えるのが出土遺物で、そのほとんどが釘であることが報告書の遺物出土状況図からわかります。
 この釘の出土状況が、この建物が自然倒壊したと考えられている根拠となっています。
 また、基壇にかかるように正方形に何箇所か濃淡の差が確認できますが、これは遺跡を調査する際に、表土から掘り進め、遺構を確認する手段として、グリッドという方形の単位を用いた結果で、ここでは基壇を一部掘り抜いていることがわかります。
 このことから、報告書中にある、基壇の土盛りが強固なものではなかったという状況が伺えます。

萩ノ原遺跡の全景写真

萩ノ原遺跡の全景写真です。
報告書には瓦塔を据えたと見られる基壇が全体図に明示されていません。
5. これは先に触れたように、発掘調査前に瓦塔の発見があったことに起因する可能性があります。
 報告書中、瓦塔の出土状況として昭和39年の調査時とみられる写真を掲載しています。
 その写真には瓦塔片が密集して出土している状況が写っています。
 にもかかわらず、この出土地点が報告書上では判然としません。
 つまり、瓦塔の集中する地点と基壇との位置関係が検証しにくい状況が発生していたと考えられます。

萩ノ原遺跡全体図

萩ノ原遺跡全体図

最後に

今回はあくまで資料紹介とし、検証は別の機会とします。
今回取り上げた資料と報告書の掲載との関係は以下のようになります。

  1. 第8号住居址出土の土師器坏
    挿図-63 遺物No.35、
    挿図-150 遺物No.38、図版-154下段、116ページ 第8号住居址出土土器表(2) 遺物No.35
  2. 第8号住居址出土の土師器坏
    挿図-63 遺物No.36、116ページ 第8号住居址出土土器表(2) 遺物No.36
  3. 第7号住居址出土の土師器坏
    挿図-150 遺物No.56、272ページ 遺物No.56

参考文献

寺門義範・田口崇 1977 『千葉県萩ノ原遺跡 -房総地方の古代寺院址研究-』 日本文化財研究所

関連リンク

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