024新生荻原野遺跡の古墳時代集落の特徴について

更新日:2022年04月18日

田中清美

遺跡所在地

新生

時代

古墳時代

 新生荻原野(あらおいおぎわらの)遺跡は、養老川下流域の左岸台地上に位置し、ゴルフ場などの開発に伴い、昭和63年から平成元年にかけて発掘調査を実施しました。
 A・B・C地区の約70,000平方メートル以上から縄文時代早期・前期・中期の集落跡や古墳時代後期から平安時代の墓域などが多数発見されています。
 ここではC地区で調査された「古墳時代後期の区画溝を伴った集落跡」について触れてみたいと思います。

C1区全体図

C1区全体図

C1地区を北東側から望む写真、手前に木に覆われた前方後円墳がある

C1地区を北東側から望む。手前に前方後円墳がある。

 C1地区は約21,000平方メートルで、遺跡はやや台地の奥まった部分に立地しています。旧石器や縄文時代早期の炉穴、古墳時代時代後期の前方後円墳1基を含む平安時代までの墳墓群も発見されました。
 また、全体は発掘していませんが、古墳時代後期の7世紀代の集落が調査されました。

手前にC1-7号竪穴建物跡の写るC1地区の調査をしている写真

C1地区近景
手前はC1-7号竪穴建物跡

 この集落跡は竪穴建物跡がC1-9号竪穴建物跡を中心にして30から40メートルの距離を置いて円を描くような配置で、東側から南側にかけて10軒確認されました。
 そのうちC1-8号竪穴建物跡からは土器などと伴にフイゴの羽口や鉄滓、C1-2、C1-7号竪穴建物跡及び、その周辺から鉄滓が出土しました。
 この建物は鍛冶関係の工房としても使用されていたと推測されます。

C2-1、2号溝を南側より撮影した写真

C2-1、2号溝(南側より撮影)

 さらに、この中央部付近を南北に通過するC1-6・7号溝は底部が堅く踏み固められており(中央部付近では認められていませんが)道路と推定されます。
 この集落の中心を南北方向に道路が通っていたようです。
 そして、この溝の集落を過ぎた北端部分は途切れ、数メートル先には溝を遮るように直行する長さ4.85メートルの長円形で深さ30センチメートル弱の溝(C1-5号溝)が存在します。
 これは土塁や塀などの目隠し用施設跡の可能性があります。
 また、この集落は、さらに幅4 〜5メートルの二重の溝に囲まれていました(C1-1から4、C2-1、2号溝)。
 溝の間(幅約2m弱)は溝を掘った土で土塁状に盛り上げていた可能性もあります。
 この二重の溝は、目隠し用施設跡とみられるC1-5号溝の北側で途切れ、幅約3メートルのブリッジ状になっています。
 集落への北側からの出入口が有ったのでしょうか。
 調査は一部分ですが二重の溝がこの集落を囲んでいると想定すると囲まれた集落の形は不整円形で広さは約50,000平方メートルにもなります。つまり、溝などによって周囲と区画し遮断する施設をもった集落といえます。

区画する二重の溝の写真

区画する二重の溝(手前)
中央が途切れています。

 溝で囲まれた範囲で未調査部分の想定される竪穴建物は倍に増えて、20軒の集落と推定できます。1時期に20軒があったのではなく、1時期5軒くらいの単位で10年位の時代差をもって存在していたと考えています(50年前後の期間に集落が存続していたか)。
 それでは、この集落はどのような性格をもっていたのでしょうか。
 溝によって区画された建物跡はいわゆる「豪族居館」があります。群馬県群馬町の三ツ寺遺跡などに代表されるしっかりした溝や柵列などで区画され、内部も規模の大きい掘立柱建物跡などで構成されている遺跡です。
 しかし、当遺跡を「豪族居館」に想定しても、このC地区に6世紀末ころと考えられる前方後円墳が北東側に続く尾根上に立地していますが、埋葬された首長と当集落との時期が合いません。
 また、当遺跡は溝で広い範囲を区画していると想定されますが、内部の建物は規模や出土遺物が普通の集落と変わりがありません。
 さらに、溝も一部の調査であり、集落を全周しているかは確定できません。
 大村直氏は家地(屋敷地)の萌芽は、古墳時代の初期から見られると述べており、この集落も一家族の屋敷地の可能性もあります。
 また、農業を中心に生活し、農閑期には鉄鍛冶を一部で行う集落が推定できないでしょうか。
 群馬県子持村黒井峯遺跡では住居などの建物が畑に囲まれ、柵などにより区画されるなどの例があります。
 ただ、周辺の前方後円墳やそれ以降の方墳などの墳墓群との関わりもあり、また、溝などにより周囲と区画し遮断する施設をもっており、「一般の集落」ということでは片付けられない面もあります。
 今回の発掘調査は、集落の部分的な調査であり、また、遺跡の残存状況が悪く出土遺物も少ない状況でした。
 当稿では調査で検出した少ない資料からこの集落の性格を想定しようと試みたものですが、より疑問の点が多くなってしまいました。
 今後は溝などにより区画された他の集落遺跡例を比較検討し、当時の支配制度との関わりも含めてさらに深層を追及したいと思います。

参考文献

田中清美 忍澤成視ほか 『新生荻原野遺跡』 財団法人市原市文化財センター 1998
大村 直 「5古代東国社会の基盤」 『新版古代の日本8 関東』 角川書店 1992
上野純司 「第2節拡大する集落」 『房総考古学ライブラリー 古墳時代(2)』 2002
『古墳時代の研究2集落と豪族居館』 雄山閣出版株式会社 1990
大村 直 「ムラの廃絶・断絶・継続」 『市原市文化財センター研究紀要II』 1993

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