026潤井戸鎌之助遺跡の埋納された注口土器

更新日:2022年04月18日

鶴岡英一

遺跡所在地

潤井戸

時代

縄文時代後期前葉

 潤井戸鎌之助(うるいどかまのすけ)遺跡では、37号遺構と名付けた直径2.5メートル程の穴(土坑(どこう))から、2体の人骨が見つかりました。骨はほとんど溶けてしまい、一部が痕跡程度に残るのみでした。2人とも頭を東に向け、身体を折り曲げた屈葬という方法で埋葬されていたようです。また、いずれも床面に接した状態で見つかっていることから、穴が掘られたあと、同時に埋葬されたことが考えられます。
 この穴からは、注口土器(ちゅうこうどき)という土瓶や急須のような形をした土器が、ほぼ完全な状態で出土しました。土器は人骨の頭部付近の壁際で、床面より少し高い位置に横たわった状態で見つかっています。おそらく、穴を埋めはじめて間もない段階で、一緒に納められたのでしょう。

穴を掘られたところに発見された埋葬人骨と注口土器の出土状況の写真

埋葬人骨と注口土器の出土状況

 注口土器は東日本を中心に、縄文時代の後期から晩期の中頃にかけて安定して見られますが、出土する数自体は少なく、日常的に使われる類の道具ではなかったようです。名前の由来となった注ぎ口を持つ形状から、液体を入れるために用いられたことが考えられますが、その液体が具体的に何であったのかは、わかっていません。いっぽう、晩期の事例で、注ぎ口の先端部全体が摩滅しているものが多い傾向にあることから、先端部をなでたり、直接口をつけるような使い方をしていたのではないか(西田2006)、という指摘があります。
 鎌之助遺跡から出土した注口土器は、やや丸みを帯びた算盤玉状の外形で、口縁部につけられた把手は橋状に注口部とつながります。また、上半部には細い隆起線で弧状、沈線で曲線状の文様がつけられています。これらの特徴から、この土器は縄文時代後期前葉の堀之内1式のやや新しい段階のものと考えられ、人骨も同時期のものと捉えられます。
 この土器は人骨に伴って出土していることから、埋葬の際に利用されたことがわかる貴重な事例です。ただ、この種の土器が当初から埋葬儀礼用としてつくられたものであったかについては疑問です。確かに、この時期には墓と考えられる遺構から注口土器が出土する事例が比較的多く、この器種を選択して埋納している点は注目しなければなりません。しかし、全体量からすれば、それ以外の場所から出土する場合のほうが多いことから、あくまでも最終的な用途のひとつと考えておいたほうがよいでしょう。

注ぎ口のついた注口土器の出土した状態の写真、右上には出土後のそろばん玉形で持ち手と注ぎ口のある注口土器の写真

注口土器の出土状況

 埋葬に伴って土器を埋納(副葬)する事例は、堀之内2式の新しい段階からこれに続く加曽利B1式の頃に著しく増加します。また、この前後の時期を含め、神奈川県から東京都にかけての関東地方西南部に分布の中心がある(中村2008)ようですので、これらの地域からの影響が考えられるかもしれません。
 同時に埋葬されたと考えられる2人の性別や関係、死に至った原因はわかりませんが、鎌之助遺跡に暮らした人たちが、この土器に入れられた液体を回し飲みしながら死を悼み、最後に死者へ回し掛け、お供えとして墓穴に一緒に埋めた様子が想像されます。

参考文献

西田泰民 2006 「注口土器の用途」『考古学ジャーナル』No550
中村耕作 2008 「縄文時代後期の土器副葬」『神奈川考古』第44号

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