039祇園原貝塚の里海

更新日:2022年04月18日

近藤 敏

遺跡所在地

国分寺台中央

時代

縄文時代後期

東京湾と、あたり一面に広がる田んぼや畑を上空から見た写真

市原市役所上空から北に見た東京湾(昭和47年から昭和48年当時)

 市原市の北部地域は東京湾東岸に位置しており、海側の波蝕台上方の市原台地には、今から約3800年前の縄文時代後期の集落がありました。写真下の建物は現在の市原市役所、その右側(東側)隅が当時調査中の祇園原貝塚(ぎおんばらかいづか)となります。祇園原貝塚には貝殻が、集落を囲むように環状に堆積していました。

青空の下、水がはけて土が露出した干潟の写真

2013年6月大潮の木更津市小櫃川河口盤洲の現代の干潟(縄文時代も似た風景?)

青空の下、水がはけて土が露出した干潟と、干潟に隣接して生い茂る草の写真

2013年6月大潮の木更津市小櫃川河口盤洲の現代の干潟(縄文時代も似た風景?)

 縄文時代後期の海岸線を復元した下図は、表層の地形や地質と、低湿性遺跡の調査から推定したものです。JR内房線より外側の浅海は1923年の関東大地震直後の東京湾海底調査をもとにしました。干潟の海側ラインは国道16号線とほぼ同じ場所となっています。現在水田として利用されている低地部は潟湖(せきこ)で、台地の近くに水際があったようです。

 復元された環境から想像すると、祇園原貝塚に生活の跡を残した縄文時代の人々は、集落のある台地を刻む開析谷を流れる小川や白旗川を通じて、海岸砂丘に囲まれた波静かな潟湖に舟を進め、干潟に抜けていたと考えられます。当時の干潟には、イボキサゴと呼ばれる小型の巻貝や大ぶりのハマグリ等のたやすく漁ができるものにはじまり、満潮時のクロダイ、スズキなどの大型魚類、イワシ等の小型魚類も豊富だったことが、貝塚から検出される遺存体(貝・骨)の分析から推定されています。
 祇園原貝塚の貝や魚骨は、採集地であった干潟、縄文の里海がいかに豊かだったかを表していると言えるでしょう。

縄文時代の東京湾岸周辺の復元図

加曾利貝塚博物館平成24年度企画展東京湾岸の貝塚を探る(祇園原貝塚)掲示パネル

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