007君塚クワノ木古墳の石室石材
小橋健司
君塚クワノ木古墳は標高2メートルから3メートルの海岸沖積平野につくられた古墳で、1979年に発掘調査が行われました。墳丘は後世に三山塚(さんざんづか)に改変されたため原形をとどめませんが、土師器(はじき)や須恵器(すえき)の破片など古墳時代の遺物が出土しています。3体分の人骨が散乱した状態で検出されたほか、石室の石材と見られる石も発見されました。
出土した石材の表面にはたくさんの穴があいています。穴の直径は約2センチメートル、岩石自体は凝灰岩質で、軽石や冷えた溶岩のような多孔質の石材とは明らかに異なります。
じつはこの穴は貝のすみかで、ニオガイ科の仲間のしわざです。ニオガイは貝殻をヤスリのように使うことによって、岩などの硬い基質に体をおさめる穴を掘る習性を持つのです。ニオガイの仲間は、孔(あな)を穿(うが)つことから穿孔貝(せんこうがい)と呼ばれています。
このような石材の産出地には条件があります。まず、凝灰質砂岩・泥岩が海岸線に露出しており、かつ、そこに穿孔貝が住んでいなければなりません。
近辺でこの条件に合致するのは富津の海岸線です。そして、実際に現在でも同じように穴のあいた石を簡単に見つけることができますし、場所によっては石室に使えるような転石も認められます。
つまり、クワノ木古墳で出土した石材は、横穴式石室をつくるために、はるばる富津の海岸から運ばれて来た可能性が高いと考えられるのです。穿孔貝による穴が特徴的なこの石材は「房州石ぼうしゅういし」・「磯石いそいし」と名付けられています。
しかしなぜ、同じ上総とはいえわざわざ遠方から石材を運ばなければならなかったのでしょうか。
この現象には歴史的な要因と経済的な要因があったと考えられます。まず、歴史的な要因としては、上総地域で横穴式石室をいちはやく導入したのが内裏塚(だいりづか)古墳群を築いた富津地域の集団で、そのために石材の調達・加工技術が他地域に先んじて発達した、ということが挙げられます。そして、経済的な要因には、供給先の地域に石室石材に適した露頭がなかったこと、海辺からの運搬が陸路に比べ便利だったこと、波に洗われた石材は平らな面をもち加工の手間が省けるというメリットのあったこと、が挙げられます。おそらく経済的な側面は歴史的要因にも影響を与えたことでしょう。
市原市内では山倉1号墳の横穴式石室や西谷(にしやつ)古墳群にも同様の磯石が使われています。これらの古墳が築かれた古墳時代後期後半には、古墳のパーツとでも言える石室・石棺材や埴輪が、各産地から関東地方の広い範囲へ供給されるようになります。例えば、磯石の場合は埼玉県行田市の埼玉(さきたま)古墳群将軍山古墳にまで届いており、秩父の緑泥片岩(りょくでいへんがん)は木更津市金鈴塚(きんれいづか)古墳の石棺に用いられています。
築造された時期ははっきりしませんが、クワノ木古墳の石材も同じ時代背景によってもたらされたものだったのかもしれません。
『千葉県市原市 君塚クワノ木古墳発掘調査報告書』市原市君塚発掘調査団 1981年
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更新日:2022年04月18日