028蟻木城小考

更新日:2022年04月18日

田中清美

遺跡所在地

有木

時代

戦国時代

蟻木城・小野山城の概念図 詳細は以下

蟻木城・小野山城の概念図

 蟻木(ありき)城跡は有木城跡とも記され、養老川の中流域右岸台地上に所在し、西の椎津方面、南の牛久方面も見渡すことが出来る養老川沖積地を広く望む好位置に立地しています。
 城中心部は有木地区にあり、その縄張りは有木、海士および福増と山倉の一部を含む各地区の広範囲に及んでいます。

蟻木城(画面左奥の台地)と小野山城(画面奥、右半分の台地)遠景(南側より)小湊鉄道の線路はの写真

蟻木城(画面左奥の台地)と小野山城(画面奥、右半分の台地)遠景(南側より)。線路は小湊鉄道。

小野山城から見た蟻木城(正面台地)の写真

小野山城から見た蟻木城(正面台地)

 城の範囲は宅地化が進んでいますが、主郭部は後世の地形改変がやや有るものの土塁(どるい)や郭(くるわ)、虎口(こぐち)などが確認でき、「堀の内」「有木」「北堀」「木戸脇」「坂花輪」「田郭(辺)?」などの小字も残っています(落合氏によると、それ以外に「本城」「中城」「城手の下」の地名があったとされ、浜名氏によると屋号に「北門」「要害下」があるとしている)。

両端に木があって真ん中に道路のある蟻木城跡の東側虎口の写真

蟻木城跡の東側虎口 その1

両端に木があって真ん中に道路のある蟻木城跡の東側虎口の写真

蟻木城跡の東側虎口 その2

左に赤い家と葉が生い茂る蟻木城跡の土塁の写真

蟻木城跡の土塁 その1

木と葉が生い茂る蟻木城跡の土塁の写真

蟻木城跡の土塁 その2

主郭部付近にある八幡神社の鳥居からの写真

主郭部付近にある八幡神社

 主郭部は有木地区の八幡神社付近およびその南西側付近とみられ、残存状況がやや不良ですが、3から4箇所の郭とそれらを区切る堀で構成されていると見られます。
 さらに南側の養老川沖積地を望む台地斜面部に郭が配されています。
 主郭部と低地との比高は約10メートルと低く、主郭部周辺の虎口は、主郭部の南東側の低地からと西側の低地からの遺構が良く残っています。
 主郭部の北側は土塁などが残存し、平坦面が続いていて、館等の施設が想定されます。

 また、最も北側は字「北堀」の幅約60から90メートル前後の堀により台地が切られています。
 したがって、城郭の範囲としては台地西側の海士地区全域についても城跡の一部として考えています。
 当城は郭など施設の配置形体から南方向を意識した造りになっています。

 蟻木城跡は文献から、天正5年(1577)の「里見義弘書状」(『吉川金蔵氏所蔵文書』 資料参照)では前年に北条勢力が上総に侵入し、蟻木城を築造し配下の椎津氏を置き、下総・相模の兵を入れて守備している状況が記され、里見氏としてはこれを攻略するために、上杉謙信の関東出陣を懇願しています。
 また、江戸時代に書かれた「管窺武鑑抄」には、天正3年(1575)に里見義弘により蟻木城が落城し、城主「中務少輔」と弟の「椎津帯刀」が討ち死にしたと書かれています(天正3年9月3日、佐貫城主三浦下野守成良を大将、その子左馬助良俊を副将とし、小糸城主秋元上野介・久留里城代山本弾正・山梨源九郎、大多喜の正木大膳らが蟻木城を攻略し、城主椎津中務少輔、弟の「椎津帯刀」が討ち死にし、落城したといわれている)。
 いずれにしても、この城は後北条氏が南の里見氏に対応するために築城した16世紀後半の最前線の城(陣城=攻めの城)と考えられます。

また、小野山城跡が小谷を挟んで南西側の台地上に存在しています。

 小野山城跡は、主郭部が市西小学校の敷地となっており、保存状況は不良ですが、蟻木城を見下ろす位置(標高約30メートルで蟻木城とは7から8メートル高い)にあり、おそらく一時期には蟻木城を補完するための城(最終的には搦め手としての機能も考えられる)として造られたと推定されます。

小野山城概念図

小野山城概念図

畑の写った蟻木城跡から見た小野山城跡の写真

蟻木城跡から見た小野山城跡

 小野山城跡については、天正18年に後北条方の城主「小野修理亮」が豊臣方の浅野長吉により攻略され落城したという言い伝えもあります。
 主郭部(I郭からIII郭)は標高約30メートルの長方形(80メートル×240メートル)の台地上に配置され、I郭は最高部の南側端部と考えられます。
 II郭・III郭は北側の蟻木城側に位置しています
 西側の養老側の沖積平野寄りには、犬走り状の細長い郭が数段存在します。
 また、現在は残存しませんが、以前は東側にも台地に平行した堀切が認められ、北東側からIII郭への虎口が存在したと想定されます。
 蟻木城と小野山城の最短距離は約170メートルです。しかし、間には小谷からの小川が流れ付近は湿地帯であったと考えられますので、それほど容易には直接の連携がやや困難な状況もあります。

道路、横断歩道、家が写る南東側よりの小野山城跡近景の写真

小野山城跡近景(南東側より)

石が何段か積み重なった市指定の石造十三重塔の写真

石造十三重塔(市指定)

 海士地区の泰安寺坂下には「石造十三重塔」があり、これが天文21年(1551)、里見義堯に攻略され討ち死にした二階堂又太郎実綱の供養塔といわれています。
 この塔は安藤氏によると花崗岩製で(上部の相輪部は失われ、安山岩製の五輪塔の空風輪部を後補しています)、いわゆる関西式の様式で造塔年代は少なくとも南北朝中期以前で、後北条氏が関西から供養塔として持ち込んだ推定がなされています。
 さらに、同地区の龍興寺には室町期(16世紀代)の五輪塔片も存在しますので、蟻木城関連の武将の供養塔の可能性もあります

 蟻木城跡の周辺では、ほとんど発掘調査は実施されていませんが、昭和58年(1983)には、わずかな範囲の調査ですが、主郭部より約400m北西側の台地中央部付近で北東から南西方向に延びる二重の溝と柵列と推定される遺構が検出され、室町期と見られる陶磁器などの出土と共に、城跡との関連が推測されました。
 また、平成18年(2007)の調査では、北東約400mで室町期の土坑から瀬戸・美濃系陶器片とともに和鏡(菊花蝶鳥文鏡)が出土しており、城跡関連の成人女性墓の可能性があります。

 小稿では、ほとんど実態のわからない蟻木城跡について、現状の調査研究成果の確認と当城の範囲を主郭部とその周辺の台地全体として捉え、隣接する小野山城跡も一時期は蟻木城跡の補完の城として推定したものです。
 今後は多くの研究者が言われるように「天正4年(1576)時の後北条氏の築城水準が押さえられる貴重な城」として、本格的な調査が待たれるところです。

 また、城主といわれる「椎津氏」や地元の国人領主「有木氏」などの更なる研究も必須の課題といえるでしょう。

資料

「(天正五年・1577) 里見義弘書状」 『吉川金蔵氏所蔵文書』

其以後者、往還不自由故、遥々絶音問候、仍旧冬(北条)氏政当国東西へ相揺、其上号有木地取立、椎津為物主下総惣番手ニ加、相州衆相抱候、両酒井(酒井康治・酒井政辰)も去年氏政ニ一味候、然而(上杉)謙信去冬御越山相待候処、越中筋御隙故、無其儀候、当春有御越山、氏政被相押候者、両酒井并有木之地押詰、達本意度候、将亦加賀・越中・能登迄御本意之由、其聞得候、一身之太(大)慶此事候、急速有御越山、当年中厩橋ニ御在陣候付而者、上野之間、悉相調可申候間、武相之間迄も、可有御調儀候、何篇御越山火急ニ相極候、委旨可有彼口舌候條、令省略候、恐々謹言、
(天正五年)二月廿六日 (里見)義弘(花押)
  直江大和守(景綱)殿

千葉県 2003 『千葉県の歴史 資料編 中世4(県外文書1) より。

参考文献

「有木城」 『日本城郭全集3』 株式会社人物往来社 1967
「有木城と北条上総介」 池田忠好 『南総郷土文化研究会誌第11号』 1978
「蟻木城」 落合忠一他 『日本城郭体系 千葉・神奈川』 新人物往来社 1980
「小野山城」 落合忠一他 『日本城郭体系千葉・神奈川』 新人物往来社 1980
「第5項 池和田落城とその後」 伊禮正雄 『市原市史 中巻』 市原市教育委員会 1986
「城郭からみた市原の室町・戦国時代」 柴田龍司 『歴史講座素顔いちはら歴史探訪―講演会資料―』 市原市教育委員会 1993
「小弓公方の家臣上総椎津氏」 浜名敏夫 『市原地方史研究 第18号』 市原市教育委員会 1993
「市原市指定文化財 有木城跡石造十三重層塔について」 安藤登 『上総市原第10号』 1997
「(3) 海士遺跡」 田中清美 『不特定遺跡発掘調査報告書(2)』 財団法人市原市文化財センター 1998
「2.有木城跡」 小高春雄 『市原の城』 1999
「中世城郭について」 田中清美 『市原市東海・海上・三和地区の遺跡と文化財』 2006
「第三節 中世」 小川浩一 『市原市海士遺跡群(三入道地区)』 市原市埋蔵文化財調査センター 2008
「研究ノート 中世の養老川中流域」 櫻井敦史2008 『市原市埋蔵文化財調査センターホームページ』

この記事に関するお問い合わせ先

市原市埋蔵文化財調査センター

〒290-0011 千葉県市原市能満1489番地

電話:0436-41-9000
ファックス:0436-42-0133

メール:bunkazai-center@city.ichihara.lg.jp
休所日:土曜日・日曜日・祝日