029市原条里制遺跡の底は浅い海の堆積物
近藤 敏
遺跡所在地
菊間ほか
時代
縄文時代〜中世
市原条里制遺跡について
市原条里制(いちはらじょうりせい)遺跡は、村田川から養老川にはさまれた通称「市原台地」下の低地部に位置し、北は千葉市との境から南はJR五井駅東口付近、東は台地直下から西は市道平成通りにおよぶ、たいへん広範囲の遺跡です。
本来条里制遺跡は、古代の律令制班田開発のための、大規模水田耕地開墾区画整理の跡を意味していますが、ここでは、平成22年度に確認調査を行った「菊間並木・廻道北・八幡蕗原地区」(図1の矢印範囲)の調査成果のうち、海成層を発掘した際の内容を説明します。

図1 空から見た市原条里制遺跡
(左端中段JR八幡宿駅東口・中央付近市原スポレクパーク) スケール 380m

図2 図1赤枠内の遺跡調査平面図
1.菊間手永貝塚 2.県立スタジアム(市原スポレクパーク)調査区域
村田川河口低地の遺跡
今回の調査は市道建設に先立つものです。調査区は村田川(図3右上)左岸に位置し、千葉県立八幡高等学校(図3-1.)前のスポレクパーク敷地南側の館山自動車道側道から、市道「平成通り」手前までの全長680mの矢印区間を対象としています。
館山自動車道と側道部分は道路建設に先立ち調査が行われ、実信地区(図3-2.)と並木地区(図3-3.)の本報告がされており(小久貫ほか1999)、スポレクパーク敷地(図3-4.)は、概要が報告されています(千葉県文化財センター1998)。そこでは水田低地以前は縄文時代の古環境が、海域であったことがわかりました。海域当時の堆積物は、粒度が粘土と砂の中間に当たるシルト層で灰色を呈しています。現在の村田川河口付近の当時の海は、そのシルト層の中に自然貝層が含まれており(図5・6写真参照)、砂が堆積するような流れのある海ではなく、内湾の静かな海で貝類(ハマグリ等)がたくさん生息した環境が推測されます。

図3 菊間地区周辺調査全体図 (日本測地系方眼一辺500m)
縄文時代の潮位
図4の山吹色線内左上の八幡蕗原地区北西端の現標高は3メートル、海成堆積物である灰色砂質シルト層(以下シルト層)上面は標高2.8メートルほどで、最も台地寄りになる右下の菊間並木地区南東端の現標高は4.5メートル、シルト層上面は標高3.2メートルとなっています。現標高が低く、表土の薄い水田地区は、シルト層が削剥されている可能性が高いので、海底が東京湾方向に若干傾斜していたとしても、縄文時代の海底が現標高の3.2メートル以上あったことになります。
海進最高潮位期の縄文時代前期から前期後半までは、潮の満ち引きを考慮すればシルト層より1~2メートル以上、おそらく現標高5メートル前後の海水面が広がっていたことになります。隣接4.の調査成果(県立スタジアム)から、縄文時代前期後半から中期初頭までは海退時期であったと考えられますので、その後内湾は土砂の堆積により、潟湖から低湿地へ変化していくと推測されます。
(注意)この内容は平成23年6月18日開催のいちはら埋文講座で紹介したものです。

図4 調査区位置図
1.八幡蕗原地区 2.廻道北地区 3.菊間並木地区 4.県立スタジアム地区

図5 八幡蕗原地区 シルト層内の自然貝層

図6 菊間並木地区 クラムE地点の自然貝層

図7 菊間並木地区 クラムI地点 (ここから自然貝層は途切れる)

図8 調査区水田耕作放棄地湿地に広がるガマの群落

図9 調査区水田耕作放棄地湿地に広がる半化粧の群落
引用・参考文献
小杉正人・松島義章 1991年 「村田川低地における縄文時代の食料資源の供給源としての海域古環境の復元」
『千葉市神門遺跡』 千葉市教育委員会・財団法人千葉市文化財調査協会
佐藤 隆 新田浩三 1997年 「市原市条里制遺跡(県立スタジアム)の調査成果」
『研究連絡誌』第49号 財団法人千葉県文化財センター
財団法人千葉県文化財センター 1998年「市原条里制遺跡(県立スタジアム)」
『千葉県文化財センター年報』No22
小久貫隆史 加納実 高梨友子 1999年「実信・並木地区」『市原市条里制遺跡』財団法人千葉県文化財センター
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更新日:2022年04月18日