011千草山廃寺跡と千草山遺跡

更新日:2022年04月18日

田中清美

 千草山廃寺(ちぐさやまはいじ)跡は、国指定史跡上総国分尼寺跡より東に約1キロメートル離れた標高30メートル前後の台地上に位置しています。現在は、市原中学校の南側で山林になっています。昭和38年の確認調査で南北約7メートル、東西約10メートル、高さ約90センチメートルの土壇(どだん)(土を突き固めた建物の基礎)や建物の礎石(そせき)に使われたと考えられる凝灰質砂岩も発見されました。また、多数の布目瓦や鉄釘なども出土し、「瓦を葺いた奈良平安時代の基壇建物」の存在が知られるようになりました。これが千草山廃寺跡といわれてきました。

雑草で生い茂った中央にトタンの古い家が2件並んでいる写真

上 千草山廃寺跡 南側より遠景

舗装された農業用道路のような道の奥に伸びきった雑草と奥に木がたくさん写っている写真

上 近景

 その後、昭和50・51年と60・61年の2回に亘り、千草山廃寺跡の北側一帯(千草山遺跡)で大規模な調査が行われました。その結果、縄文時代早期の炉穴や古墳時代後期の竪穴住居跡などたくさんの遺構が発見されました。特に千草山廃寺跡の時期にあたる奈良平安時代では、数量は少ないのですが、竪穴住居跡や墳墓、区画溝などとともに、一般の集落では出土しない皇朝十二銭(古代日本で作られた十二種類の銅銭)のひとつである神功開宝(じんごうかいほう/じんぐうかいほう)と「寺」と書かれた墨書土器や畿内産の土師器なども出土しました。また、この時、軒丸瓦(二十四葉単弁蓮華文)と軒平瓦(均整唐草文)が採集され、上総国分寺跡で使用した瓦と同じ笵型で作った文様であることもわかりました。

千草山遺跡の発掘調査をたくさんの人が作業している写真

上 千草山遺跡の発掘調査風景

 ここで、調査した北側地区(千草山遺跡)について奈良平安時代の遺跡の様子を見てみましょう。この時代は大きく1期から5期の5時期に分けることができます。1期は8世紀のはじめから半ば頃まで、2期は8世紀半ばから後半頃まで、3期は8世紀の終わりから9世紀のはじめ頃まで、4期は9世紀前半から半ば頃まで、5期は9世紀後半から10世紀のはじめ頃までです。それ以降の時期は確認できませんでした。
 発見した主なものは、1期が畿内産の土器を出土した竪穴住居跡1軒と方形区画墓や地下式横穴などの墳墓(僧侶や豪族などを埋葬したもの)など、2期は3軒の竪穴住居跡、3期は竪穴住居跡1軒と方形区画墓2基、4期は竪穴住居跡12軒と掘立柱建物跡や火葬墓などで、この時期は神功開宝や「寺」名の墨書土器なども出土しています。5期は竪穴住居跡4軒と6棟の掘立柱建物跡および二重の区画溝がありました。
このことから、1期から3期の奈良時代の直前から平安時代のはじめ頃までは、少数の竪穴住居と墳墓群が存在し、4期から5期の平安時代の前期以降は、竪穴住居が増加し、複数の掘立柱建物跡や区画溝が存在したことがわかりました。
千草山廃寺跡は、千草山遺跡の北側谷部分の小字に「千草寺谷」がみられ、「瓦を葺いた奈良平安時代の基壇建物」の存在、また、「寺」名の墨書土器や神功開宝・畿内産の土師器など一般の集落とは違った遺物が出土すること、さらに、二重の区画溝が基壇建物があるとされる区域を区画しているとも想定できることなどから、古代寺院として存在していた可能性がより確実なものになって来ています。

右上に市原中学校が写っており、手前に茶色い砂の区画溝が広がっている写真

上 区画溝(右上は市原中学校)

 須田勉氏は、千草山廃寺の創建根拠として、上総国分寺の造瓦が地元郡司階層および在地土豪層による協力関係によって成立したことを推測し、天平19年(747年)に発令された豪族に対する優遇策により、市原郷による上総国分寺造瓦協力の見返りとして、千草山廃寺が8世紀後半に市原郷人クラスのものにより、氏寺として建立されたとする見解を述べています。
 以上のことなどから、北側地区も寺院の関連施設と考えて、千草山廃寺自体の変遷を予測すると次の1期から3期の3時期が考えられます。
 1期は8世紀後半から9世紀初め頃に、一宇で総瓦葺の基壇建物(中心部)を建立。
 2期は9世紀前半以降、中心部とその北側に掘立柱建物跡を伴う竪穴住居群が存在。
 3期は9世紀末から10世紀初めにかけて二重の溝に区画された中心部とその北側に掘立柱建物跡および竪穴住居群が存在。
 この推測によると千草山廃寺の存続期間は100年以上となりますが、千草山廃寺と同じ性格の創建根拠が想定されている千葉市の小食土(やさしど)廃寺も存続期間を出土遺物から100年くらいと推定しているので可能性は高いと思われます。
 また、千草山廃寺の性格については、市原郷の氏寺という見解の他に、小谷を隔てた西側に存在する官道と考えられる道路遺構や国衙の祭祀遺跡ともいわれる稲荷台遺跡などに近いことから上総国府の一施設とする見解や上総国分尼寺に付随した修行などの場としての山林寺院の候補とする見解もあります。
 千草山廃寺跡は、国分寺や国府などを含む上総国の中心地に位置し、奈良平安時代の歴史の解明にとって少なからず欠くことのできない存在であると思われます。今後、千草山廃寺跡中心部分の詳細な発掘調査や周辺遺跡との関連性などを含めた調査研究を行うことにより、少しずつ千草山廃寺跡の全貌が明らかになっていくことと思われます。

参考文献
千葉県教育委員会 「市原市上総国府関係遺跡」 『千葉県遺跡調査報告書』 1964年
千草山遺跡発掘調査団 『千葉県市原市千草山遺跡発掘調査報告書』 1979年
千葉県教育委員会 『千葉市小食土廃寺跡確認調査報告書』 1986年
財団法人市原市文化財センター 『千葉県市原市千草山遺跡・東千草山遺跡』 1989年
田中清美 「謎の千草山廃寺跡(予察)」 『市原市文化財センター研究紀要III』 1995年
千葉県 「24千草山遺跡」 『千葉県の遺跡 資料編 考古3』 1998年
田中清美 「謎の千草山廃寺跡II」 『市原市文化財センター研究紀要IV』 2003年

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