013山倉1号墳の中世墓

更新日:2022年04月18日

櫻井敦史

出土地

山倉1号墳
 

遺跡所在地

山倉
 

時代

鎌倉時代

1 遺跡の立地

 山倉古墳群は養老川の沖積平野を見渡せる台地の突端に展開する、6基構成の古墳群です。このうち、埼玉県生出塚(おいねづか)遺跡で生産された多数の円筒埴輪(えんとうはにわ)や人物埴輪が出土した前方後円墳は「山倉1号墳」として知られ、有名です。しかし、この古墳は鎌倉時代も聖地とされていた点でも、重要な遺跡と言えます。

上空から撮影した前方後円墳で3つが連なっており横向きに撮影された写真。

上 山倉古墳群を北から望む。中央から左の前方後円墳が山倉1号墳。上の道路は国道297号線で、養老川沖積平野に接する見晴らしの良い立地にあります。

2 墳丘につくられた土壙墓

 古墳が築かれてから500年以上後のことになりますが、中世の幕開けとともに、養老川流域も大開墾時代に入ったものと思われます。この地域で明確な集落跡はまだ発見されていませんが、おそらく沖積平野の耕地開墾とともに、台地麓などの微高地上に居住地域を定め、村落の開発を広めていったものと思われます。
 山倉古墳群のある台地縁は、開発地の最奥に位置することになります。平野を見下ろせる墳丘上に土壙墓が置かれたことから、「昔から存在する巨大なマウンド」が、村落の人々にとって特別な空間として認識されていたものと考えられます。
 土壙墓(どこうぼ)(1号土壙墓)には鎌倉時代の常滑大甕(とこなめおおがめ)が蔵骨器(ぞうこつき)として埋められていました。このほかに、鎌倉時代の常滑壺の破片も墳丘上から発見されており、葬送空間としてこれに関連した消費が想像できます。
 1号墳では室町期以降の遺物は認められませんが、6号墳からは室町期の板碑(いたび)と五輪塔が見つかっています。このような聖域的な空間は、台地の奥に移動していったのでしょう。室町時代は台地上の裸地化(畑地化)が進行した画期と捉えられますので、墓域の移動は台地開発の点から見ても興味深いものと言えそうです。

茶色の前方後円墳の形の絵の中に渦巻き状に指紋のような線が描いてある図

上 中世前期に掘られた1号土壙墓。南に開発地を望める墳丘上を選んでいます。

3 1号土壙墓について

 さて、1号土壙墓についてくわしく見ていきましょう。
 山倉古墳群の墳丘上で中世の遺物が消費されたことは、人々にとって集落背後に見上げるマウンドが、特殊な場であったことを示すものです。しかし遺構として遺された人々の活動痕跡は、1号土壙墓1基のみとなります。
 ただし、これとは別に墳丘からも常滑産の壺片が発見されており、6a 型式とされる13世紀第3四半期頃の特徴を示すこと、蔵骨器としての利用も想像できることから、古墳主体部付近の攪乱地区(上図中央よりやや右側に空けられた窪み)にも同様の遺構が存在した可能性はあります。
 いずれにしても親子2代以下か、または夫婦のような近親者、あるいはまったく単独の墓坑しかない墓域だったと思われ、特殊と言えます。

(1)遺構

 1号土壙墓は、1号墳前方部南隅の墳頂付近に掘られています。一部が後世に破壊されています。長方形で、長軸2.92メートル、短軸1.28メートル、深さ1.25メートルあります。中心からやや東よりに、常滑産の大甕が置かれていました。
 土壙墓内の土については観察記録がありませんが、埋め戻しによる単一層をなすものと思われます。

土壙墓が2メートルの断面であることを示すために描かれた実測図

上 1号土壙墓の実測図

(2)遺物
大きな壺のようなものが掘り起こされたモノクロの写真

上 常滑大甕の蔵骨器発見状況

 発見された常滑産大甕は常滑編年の4型式にあたり、12世紀末から13世紀初頭を中心に使われたとされています。中世の蔵骨器として確認されている中では、市内最古の資料になります。
 粘土紐を輪積みにして形づくり、内面をナデて調整、外面は斜上方向にヘラによる削り整形後、ナデて調整し、比較的薄手に仕上げています。
 頸部は軽くナデていますが、輪積み時の指頭圧痕が残っています。

茶色で所々焦げ茶色に剥げている壺の写真

上 1号土坑墓から掘り出された常滑大甕 4型式とされるもので、中には人骨と銭が納められていました。

 口縁はいったん外反してから端部を帯状に整形し、若干上方につまみ上げています。
 輪積み部分は文様を刻んだ板工具で叩き締めているため、「押印帯」と呼ばれる叩き文様帯が5条認められます。 押印帯は補強調整と装飾を兼ねたもので、文様は格子と斜格子の2種類が確認できましたが、一つのタタキ工具に2種の格子目が並んで刻まれたものと解釈しています。

 器中からは人骨と銭が発見されました。

人骨について
 甕底に大腿部と頭部が残っていました。土葬か火葬かは断定できませんが、火を受けた痕跡は確認できませんでした。
 骨は、鑑定の結果、老年期の女性1体であることがわかりました。

銭について
 残念ながら現物が所在不明で、記録もないため、銭種など詳細は不明です。甕の年代から、北宋銭と考えられます。
 かりに埋葬時期が常滑4型式期(12世紀末から13世紀初頭ころ)とすれば、六道銭としては全国でも古い事例になり、大変貴重です。
 ただし、この手の甕は丈夫で長持ちします。生産品をすぐに棺として埋めたのではなく、家財として利用されたものを棺に転用した可能性もあり、その場合は少し新しく考える必要も出てきます。
 いずれにしても、埋葬期を鎌倉時代の範疇で考えておけば、大差ないものと思えますから、六道銭として古い例には変わりないでしょう。

壺の口がウエストのくびれのようにシェイプし沿った口縁部の形状のアップ写真で少し欠けている状態

上 4型式の特徴である口縁部の形状

石に2種類の格子がL字に伸びているように押印されている写真

上 2種類の格子文が見える押印

4 遺体の埋納について

 遺体の埋納方法については、人骨の残りが悪かったため、出土状況から詳しい判断はできませんでした。
 大甕の頸部内径は41センチメートルあり、老女の遺体なら、直接入れることはできるはずです。火葬あるいは仮埋葬で白骨化した遺体を納めた可能性も無くはありませんが、おそらく大甕に遺体を直接納め、土葬として埋葬したのではないか、と考えています。
 室町期以降の事例になりますが、近隣の台遺跡A地点から複数の常滑大甕蔵骨器が発見されており、参考になるはずです。整理作業に着手しましたので、近い将来には詳細が報告される予定です。

5 埋葬時期について

 4型式大甕の生産年代から、12世紀末から13世紀初頭を上限として押さえられます。
 生産品をすぐさま棺として利用したのであれば、鎌倉初期の埋葬ということになります。
 しかし、日常使用していた甕を棺に転用した可能性も高く、注意が必要です。
 このため下限期を押さえることは困難ですが、鎌倉時代全体の中で捉えれば間違いないと思います。
 先に述べた墳丘出土の壺が6a 型式(13世紀第3四半期中心)であることを併せ考えますと、13世紀中葉を中心とする時期に、山倉1号墳上の墓域が確立したのではないでしょうか。

6 被葬者について

 墓域の成立は村落の成長画期として理解できるでしょう。
ただし、ここで挙げた甕・壺は、庶民の所有物とはイメージしがたいものです。また、開発地を見下ろす聖域を占地し、自身以外を排した単独墓域であることを考えると、村落開発の中心になるような人々、例えば富豪農民層など特定階層が該当するものと思います。
 「村の墓地」とは異なる空間であったことを指摘しておきます。

 「村の墓地」と呼びうるような共同墓地は、室町期以降に先述の6号墳周辺で営まれた可能性が強いと考えられます。
 これらの墓域と村落との有機的な関連については、今後の周辺地区の調査事例が蓄積されることで、次第に明らかになるでしょう。

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