017土器が動く その1 南中台遺跡

更新日:2022年04月18日

大村 直

遺跡所在地

国分寺台・惣社

時代

弥生時代終末期

 およそ、邪馬台国の卑弥呼が存命のころ、西暦2世紀末から3世紀前半のあたりに、「土器の移動」が汎列島規模で突然活発になります。
 土器の移動とは、他地域でつくられた土器が、別地域に直接持ち込まれた場合と、他地域の特徴をもった土器が別の地域でつくられた場合があります。後者は、土器の「擬似」移動というべきかもしれません。この場合も、他地域の土器を別地域の人がまねてつくった場合と、他地域の人が別地域へ行ってつくった場合が考えられます。
 いずれにしても、当時、土器や土器の特徴といった「情報」が人の手から離れてひとり歩きするわけはありませんので、いずれの場合も、その背景に「人の移動」を考える必要があります。ただ、考古学では、「土器の移動」といった事実を知ることはできますが、人がなぜ、どのように動いたのかは、さまざまな状況証拠から推定するしかありません。
 この時期は、まさに前方後円墳が各地に出現する前夜にあたることから、過去に活発な議論があり、交易などの経済的な活動によるとする考えから、征服や争乱による難民の発生といった説まで、幅広い見解がしめされています。しかし、いまだ定説はありません。
おそらく、その契機は、当時の中心地域であった近畿から瀬戸内海沿岸地域にあったと思われます。卑弥呼の都と目される奈良県纒向遺跡では、出土土器全体の約15%が他地域から運ばれてきた土器で占められています。しかし、千葉県市原市国分寺台地区も,東日本における定型的前方後円墳成立前夜の拠点地域のひとつであり,遠距離間交流の結節点として知られています。今回は、市原市国分寺台地区の南中台遺跡から、土器の移動の背景を考える糸口を探ってみました。

1973(昭和48)年頃撮影された、田畑の中にある市原市庁舎を中心に、右側に赤丸で囲まれた南中台遺跡がある風景写真

市原市庁舎と南中台遺跡(右側)、1973(昭和48)年頃撮影。

南中台遺跡を真上から撮影した赤丸竪穴住居跡SI13を赤丸で囲んだ白黒写真

南中台遺跡垂直写真、赤丸竪穴住居跡SI13

 南中台(みなみなこんだい)遺跡は、現在の市庁舎に隣接する遺跡であり、1973(昭和48)年、市役所周辺の区画整理にともない発掘調査が行われました。

弥生時代終末期から古墳時代前期頃の国分寺台の遺跡群の地図

国分寺台の遺跡群、弥生時代終末期〜古墳時代前期頃

 国分寺台地区には、東日本最古の前方後円墳(纒向型)である神門古墳(墳丘墓)群があり、中台(なかで)遺跡,天神台遺跡,蛇谷(へびや)遺跡などが中核なる集落群を形成していたと考えています。ここで取り上げる南中台遺跡は,この時期の国分寺台地区遺跡群の中では中規模の集落であり、発掘調査によって、弥生時代終末期から古墳時代前期初頭の竪穴住居跡が44棟発見されています。

白い背景に、台に乗せられ9つ並べられている、南中台遺跡で出土した北陸系土器(弥生土器)

南中台遺跡出土 北陸系土器

白い接着剤で継ぎ接ぎされた南中台遺跡で出土した北陸系の甕形土器(弥生土器)の全身写真(左側)と、上部を上から(右上)と、正面から(右下)撮影した一枚の写真

南中台遺跡出土 北陸系の甕形土器

南中台遺跡で出土した地方(じかた)の甕形土器(弥生土器)の全身写真(左側)と上部拡大写真(右側)の一枚写真

南中台遺跡出土 地方(じかた)の甕形土器

全体的に茶色く上部は白くなっていて、洋梨型をしており、南中台遺跡で出土した弥生土器の北関東二軒屋式土器の全身写真(左側)と上部拡大写真(右側)の一枚写真

南中台遺跡出土 北関東二軒屋式土器

 出土土器には他地域の特徴をもつ土器が多数あり、北陸南西部(福井県、石川県周辺)系、東海西部(愛知県周辺)系,近畿東部(滋賀県周辺)系や、静岡県東部の大廓式、北関東の二軒屋式・十王台式土器などを確認することができます。とくに、北陸南西部系土器が竪穴住居跡SI12・13からまとまって出土しており、甕や高杯、器台など器種もほぼそろっています。

炉と貯蔵穴が白く囲まれた南中台遺跡弥生時代の竪穴住居跡SI13のモノクロ写真

南中台遺跡 竪穴住居跡SI13

真上から見たSI13(左:北陸系)とSI25(右:地元)の南中台遺跡竪穴住居跡のイラスト

南中台遺跡竪穴住居跡 SI13(左:北陸系)とSI25(右:地元)

 このうちSI13は,本遺跡最大規模の竪穴建物であり,竪穴全体規模は8.0メートル×9.5メートル,床面積は66平方メートルを測ります。竪穴平面形は各辺にやや丸みをもつ隅丸長方形であり、炉は竪穴中央部に、貯蔵穴は長(東)辺中央にあり蓋受け状の段をもちます。この時期の地方(じかた)の竪穴建物は、平面形がやや縦長の隅丸長方形であり、炉位置は主軸線と奥辺柱筋の交点付近、貯蔵穴は短辺側の主軸線と竪穴隅の中間あたり右側を基本としています。SI13の、とくに炉と貯蔵穴位置にみられる特徴は、南関東の竪穴建物とは異なり、出土土器とともに北陸地方の竪穴とよく似ています。
 北陸系の竪穴形態は、この時期の北陸系土器圏の拡大にともない山形県や福島県会津盆地などでも確認することができますが、南中台遺跡のように,遠隔地に唐突に出現する状況は,北陸からの直接的な来訪者の存在ぬきには考えられません。出土した北陸系の土器が、すべて市原の地で製作されたと推定されることからも、交易や一時的な寄生によるものとは思えません。こうした北陸南西部系土器と竪穴形態の一致は、この時期の「土器の移動」の背景にある「移住」を積極的な証明すると考えます。
 こうした事例は、隣接する中台遺跡や長平台遺跡でも確認できます。また、南中台遺跡では、北陸系以外の他地域の土器もあり、それらにも移住による可能性があると思われます。
しかし、出自の異なるさまざまな来訪者が容易に定住し、SI13のように集落最大の竪穴住居を構えることをどのように考えるべきでしょうか。
 次回は、長平台遺跡を紹介しつつ、問題を掘り下げてみます。

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