023文字資料からみる荒久遺跡1 -文字瓦(1)-

更新日:2022年04月18日

北見一弘

遺跡所在地

南国分寺台(旧惣社)周辺

時代

平安時代

遺跡からはさまざまな材質・形状の遺物が出土しますが、中には文字が書かれたものも少なくありません。
 その文字は書かれている対象や方法・内容によって、私たちにより具体的な情報を与えてくれます。
 『古事記』で有名な太安萬侶(おおのやすまろ)の墓誌や、市原市稲荷台1号墳から出土した国内最古の有銘鉄剣である「王賜」銘鉄剣などは広く知られているところです。
 ここでは文字資料から見える荒久遺跡について、紹介していきたいと思います。
 荒久遺跡は奈良・平安時代の集落遺跡で、ここからは多くの文字資料が出土しています。
 書かれている対象は土器や瓦がほとんどですが、文字を書く方法は様々です。
 大きく分けると

  1. 墨で書かれたもの
  2. A焼成後の硬い表面に、先の鋭い工具で記されたもの
  3. B粘土がやわらかいうちに工具を使って記されたもの

などがあります。
 ここでは1.を墨書(ぼくしょ)、2.を線刻、3.をヘラガキや押印と呼ぶことにします。
 今回はこうしたもののうち、瓦に記された文字資料についてみてみましょう。

荒久遺跡の文字瓦

 考古学では、瓦の表面に何らかの手段で文字を記したものを「文字瓦」と呼んで、瓦生産の具体像を示す資料として古くから研究されてきました。
 荒久遺跡では多くの瓦が出土しています。これらは隣接する上総国分僧寺から持ちこまれたもので、少数の文字瓦も混じっていました。これらの文字は、一文字で「周」・「埴」・「畔ヵ」と記されたものに限られます。
 このうち、最も多く出土しているのは「周」です。
 出土数は16点(B地点11点、C地点4点、南中台1点)(注1)あり、すべて破片資料です。
 また、出土した場所は竪穴建物跡7点、グリッド(遺構外の調査区)9点となっており、竪穴建物跡からは、おおむね9世紀後半頃とされる土器や、他の瓦を伴って出土しています。

茶色の「周」と書かれた文字瓦の写真、横には大きさを示す定規がある

「周」銘文字瓦

「周」の意味

 では、「周」の文字はどのような意味を持つのでしょうか。
 調査成果が明らかになってきている武蔵国府や国分寺を例にすると、出土する文字瓦や磚(古代のレンガ)には、地名・人名を示すものが多くみられ、とくに地名では武蔵国内にある21郡のうち、20郡の名が確認されています(当時の行政組織は国-郡-郷-(里)に分かれていた)。
これは、国府や国分寺といった官営施設の造営に、現地有力者層である郡司がどのように関わったかを示す資料と評価されています。
こうしたことから、「周」は上総国内にあった周准郡(すえぐん:現富津市周辺)の郡名であると考えられています。
よってこの資料の存在は、上総国分僧寺の造営に周准郡が関与していた証左といえます。

文字瓦「周」の製作

 ところで、この文字瓦「周」はどこで作られたのでしょうか。
 残念ながら、現在までのところその窯跡は明確ではありません。
 ただ、周准郡内か、国分僧寺周辺いずれかであると考えられます。
 ここでは、国分僧寺周辺の瓦窯跡である南田瓦窯跡を候補のひとつとして概観します。
 南田瓦窯は上総国分僧寺跡の南辺に近い南斜面に位置し、荒久遺跡からは直線距離で200メートルほどの距離にあります。
 国分寺台土地区画整理事業に伴って調査されましたが、本格的な整理作業はこれからなので、詳細は不明です。
 調査では窯跡4基、粘土採掘坑1ヶ所、粘土貯蔵跡1ヶ所が検出されており、この製品は国分僧寺に供給され、補修に使われたと考えられています。
 操業時期は、最も古いとされる3号窯跡の出土土器から、8世紀末〜9世紀初頭という時期が示されていますが、その下限は判明していません。
 文字瓦「周」は窯跡本体ではなく、粘土採掘坑とみられる穴の上から数点出土しているようです。
 出土状況や点数等は不明なので、今後の整理作業が期待されるところです。

文字瓦「周」の特徴

 荒久遺跡の文字瓦「周」は、全て分類上、平瓦で、凸面一枚づくりという方法で作られています。
 凹面には布目圧痕(瓦の型と粘土とを剥がし易くする布の跡)、凸面は縄目叩き(叩き締める工具痕)が残ることで共通します。
 ただし、一定範囲の観察による縄と布の目の数の違いから、少なくとも各2種類以上の道具が使われたことが分かります。

文字瓦「周」表裏相関図

文字瓦「周」表裏相関図

瓦表裏の観察は、凸面(縄目)を5×5センチメートル、凹面(布目)は2.5×2.5センチメートルの範囲の計測です。

 「周」の文字は瓦凸面の狭端側(台形の短い辺をいう 長い辺は広端)に認められ、その位置と向きには規則性があります。 かりに瓦の広端を下、狭端を上向きにして立てた場合、「周」の位置は瓦の上半分に位置し、また、文字の向きは右に90度回転した方向で共通しています。
 さらに、遺存度の高い大きめの破片では、横(文字の向きを基準にすれば縦)に2個並んで文字があることが確認できます。
 広端側や凹面に「周」の認められる破片は皆無であることから、文字瓦「周」は、瓦の凸面、狭端側半分の位置に、横位で2箇所記されていたことが復元できます。

茶色の狭端面を上にした状態の文字瓦の写真

狭端面を上にした状態

 つぎに、「周」の文字自体を見てみます。
 その大きさは幅1.7〜1.9センチメートル、高さ2.2〜2.4センチメートルを測り、その形状では幾つかの特徴が認められます。

  1. 2画目のはねが「口」に付いている。
  2. 3・5画目が1・2画目に付いており、また4画目を境に左右が段違いになっている。
  3. 4画目は3画目より上に突出せず、逆に5画目を突き抜けて「口」に付いている。
  4. 「口」の部分は一画目と2画目のとめ部分が内側に入り込み丸く見え、また、内側が表現されていない。
「周」銘の拡大写真、大きさがわかるように定規があてられている

「周」銘の拡大写真

 これらの特徴が、16点全てに共通することから、この「周」は平坦面に陰刻された同じ印を使用していると判かります。
 さらに、この「周」の文字のまわりには枠(わく)状の凹みが認められますので、この範囲が印面となっているようです。
 この印面の外形は文字の頂点部分で外側に突出しているため、5角形になっているのも特徴的です。
 この印面の特徴以外で、印がどのような形状のものに作られたのかについても、およそ判りました。
 それは「周」が深く押捺された瓦にのみ認められます。
 印面の外側の枠から更に外側に、幅3~3.5センチメートルを測る隅切形の凹み(以下工具痕とします)として見つかりました。
 さらに目を転じると、「周」の文字の下方には、わずかに断面円弧状の凹みが認められるので、印は印面から文字下方側にも一定の長さを持っていたことが分かります。
 全体の長さは不明ですが、おそらく、この「周」印はヘラ状、もしくは棒状の工具の先端部に作られたものではないでしょうか。
 このような工具を使用したとすれば、工房において、「周」印をもった人物が、まだ生乾きの瓦の側面に位置して、ヘラを打ちつけるように押印した状況が復元できます。

印の加工痕

 もうひとつ興味深いことがあります。
 それは「周」印の周りに認められる工具痕を観察した結果見つかりました。
 工具痕の断面形状が2種類認められたのです。
 簡単にいうと、印を加工している可能性があるということです。
 工具痕の断面形は、「周」の文字部分にかかるように同じ位置で実測しました。
 その形状ですが、ひとつは工具痕が印面よりも瓦に深く入り込んでいるもの。
 仮にこれを1型とします。
 もうひとつは、印面が工具痕よりも深くなっているものです。
 これを2型とします。
 どちらも「周」の字形自体は同じなので、この断面形状の差異は、同一工具の加工痕跡を示すものと考えられます。
 もし、この考えが成立するのであれば、1型から2型に工具を加工したという時間的な前後関係が認められることになります。
 ただし、資料数が限られるため(1型は1点、2型は15点)、今後の類例を待たなければ確実とはいえないですし、現状では文字瓦「周」の生産は、長期にわたるものとは考えにくいので、印の加工があったとしても、極めて短期間の中での変化ではないかと考えています。

荒久遺跡の文字瓦「周」の意義

 文字瓦「周」を竪穴建物に持ち込んだ目的は不明ですが、瓦窯から直接運ばれたのか、国分僧寺に葺かれていた瓦を持ち込んだのかについては、国分僧寺と荒久遺跡の関係を考える上で極めて重要な事象になります。
 現状でこの観点での結論は出せませんが、今後、国分僧寺及び周辺瓦窯の様相が明らかにされることにより、解明できると考えています。
 また、たとえ荒久遺跡の文字瓦「周」が、直接消費された国分僧寺から、さらに転用目的で持ち込まれたものと仮定しても、瓦の種類、押印される面、位置、向き等にみられる強い共通性は、瓦製作段階での時間的・空間的な狭さのあらわれという理解も成り立ちます。
 一定量の生産があったものと考えれば、国分僧寺の歴史を紐解く重要な遺物の一つになるのではないでしょうか。

注釈

注1 ここでは荒久遺跡A地点(下アラク遺跡)、荒久遺跡B地点(荒久遺跡)、荒久遺跡C地点(北アラク遺跡)、南中台遺跡の総称としています。

参考文献

1976 多宇邦雄・須田勉 『上総国分寺台発掘調査概要』 上総国分寺台遺跡調査団
1986 森郁夫 『瓦』 考古ライブラリー43 ニューサイエンス社
1998 須田勉 「上総国分寺」 『千葉県の歴史 資料編 考古3(奈良・平安時代)』
2005 深澤靖幸 『古代武蔵国府』 府中市郷土の森博物館ブックレット6 財団法人府中文化振興財団 府中市郷土の森博物館

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