050稲荷台遺跡の「貞観十七年十一月廿四日」紀年銘墨書土器

更新日:2022年04月18日

小川 浩一

遺跡所在地

山田橋

時代

平安時代

はじめに

 南北に縦貫する養老川を中心に、いにしえから多くの人々が生活した地、市原市。古代の遺跡が数多く存在する本市において、平成26年12月18日、新たに考古資料が市指定文化財となりました。指定された「稲荷台遺跡第37号住居跡出土土器一括」は、墨と筆で文字が書かれた器を中心とする資料で、考古学研究者の注目を集めています。そこで今回は、稲荷台遺跡から出土した「貞観十七年十一月廿四日」紀年銘墨書土器を取り上げ、この墨書土器が出土した背景等を掘り下げてみたいと思います。

墨汁で文字が書かれた茶色い器のような土器が2つ並んでいて、左側は割れ欠けがあり文字も薄く、右側は円形で器表面の形も書かれた文字もはっきりしている写真

写真1「貞観十七年十一月廿四日」銘墨書土器の外面(左:原品、右:復元品

墨汁で文字が書かれた茶色い器ような土器が2つ並んでいて、左側は割れ欠けがあり文字も薄く、右側は円形で器の外観や内面の形も書かれた文字もはっきりしている写真

写真1「貞観十七年十一月廿四日」銘墨書土器の内面(左:原品、右:復元品

モノクロで書かれた器の設計図のような図

図1「貞観十七年十一月廿四日」銘墨書土器

当時の時代背景

 この墨書土器には、「貞観十七年十一月廿四日」の墨書が外面に記されています(上写真・図)。貞観十七年とは、どういう時代だったのでしょうか? 西暦に換算すると875年(9世紀第4四半期初め頃)、すなわち平安時代前葉の終わりから中期の初め頃となり、奈良時代から続く律令制度が少しづつ綻びを見せはじめる頃です。中央政府による東北(蝦夷)懐柔策として行われた強制移住による俘囚(ふしゅう)が、下総で反乱を起こし、上総国司らに追討命令が下った「俘囚の乱」が起きた年がまさに、この875年であり、中央権力及び在任国司が受けた衝撃は相当に大きかったはずです。それまでの政策の矛盾が徐々に露呈し始める揺籃期ということができるでしょう。
墨書土器外面には上記の紀年銘の右上に「謹」、周囲に「酒・水鳥」などの呪術的な文言が記されており、ある程度オフィシャルな呪い(まじない)の儀式に使われた可能性があるのではないでしょうか。中央に記された紀年銘は呪い(まじない)の儀式が行われた日付を表しているのかもしれません。そして、内面に描かれた数多くの「月」の文字は達筆で、ランダムに配置されているようですが、螺旋状に「月」の文字を連筆しているようにも見受けられます。文字書きの練習として書かれたようには思えません。何か意味があるように感じます。

左端の方に車道がまっすぐ伸び、それ以外は一面畑で中に鉄塔が2本、民家のようなものが点在しあぜ道が走っているエリアの航空写真
稲荷台遺跡の全体図の図面にE地区と書かれた箇所に赤で印をしてある画像

稲荷台遺跡で行われた特殊な儀式

 この土器を出土した稲荷台遺跡(E地区)は、広義の上総国府推定地域に位置し、東は当時の官道クラスの規模を持つ古代道に接しています。「コ」の字状に配置された掘立柱建物跡や四面廂(しめんびさし)付き掘立柱建物跡が整然と建てられていることから、「国司館」とも考えられている遺跡です(写真2・図2)。当時上総国内では作られない「輸入品」である緑釉陶器を多量に出土しており、通常の集落遺跡とは異なる性格を持った遺跡であることは明らかです。
その遺跡内の掘立柱建物跡が建っていない空隙地に、イノシシやシカ、ウシなどの獣の頭部を使った土器埋納遺構や集石遺構といった特殊な遺構があり、具体的にはシカの頭骨を穴の中に納め、土器の杯を伏せて置く行為を行ったと考えられる2号土器埋納遺構や、土器の杯を入れ子状態にして中に小石を入れ、その上にウシの頭骨をのせたと考えられる7号集石遺構(写真3)等があり(図3)、特別な呪い(まじない)の儀式が行われたのではないかと想像されます。

左側に大きな石の塊のようなものに貝殻が埋まっている様子、右側にはきれいな丸の形をした貝のお皿のようなものが5つ並び、それぞれに小さな白い石か貝殻のようなものが複数置かれている様子の写真

写真3 7号集石遺構(左:遺構上面、右:遺構下面)

モノクロで書かれた稲荷台遺跡の土器埋納遺構や集積遺構、廃棄遺構などの位置を星印とテキストで示した図

墨書土器から見た「稲荷台遺跡」

 「貞観十七年十一月廿四日」の紀年銘が書かれた墨書土器は、遺跡内の西側端部にある第37号竪穴建物(住居)跡から出土しました(図3・写真4)。遺構内の覆土には多量の焼土(焼けた土)や灰が含まれており、廃絶した竪穴遺構を掘り直して、火を使った祭祀(祭りの儀式)が行われたと考えられます。前述したように、内面には「月」外面には「酒」「水鳥」などの呪術的な文字が書かれており、呪い(まじない)の儀式に使われた土器であることが想像されます。動揺が始まったこの時期を呪い(まじない)の儀式(力)で鎮めたいとする中央政府や国司の思惑が感じられるようです。「貞観十七年紀年銘墨書土器」は、土器形態編年の定点を与えてくれるばかりではなく、稲荷台遺跡の性格及び遺跡を取り巻く社会情勢をもあぶり出してくれているのです。

左上に住居跡を検出した様子の俯瞰写真、右下に住居跡の床面とみられる箇所を写した写真を組み合わせた画像

 「月」を螺旋状に連筆する意味や、本遺跡の犠牲獣を伴う特殊な儀式を「釈奠せきてん」の儀式との関係から捉える考え方、律令制度が形骸化していく過程で浸透していく陰陽道祭祀との関係等、解明していく対象は広がっています。

平成27年3月27日(金曜日)まで、市原市役所1階ロビー七重塔模型脇において、「貞観十七年十一月廿四日」紀年銘墨書土器を始めとした「稲荷台遺跡第37号住居跡出土土器一括」資料を展示しています。みなさんも思索散歩にいらしてはいかがでしょうか。

参考文献

市原市文化財センター2003年『市原市稲荷台遺跡』 財団法人市原市文化財センター調査報告書第83集

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