052上細工多遺跡出土の石造宝篋印塔

更新日:2022年04月18日

櫻井敦史

遺跡所在地

能満

時代

古代から中世

上細工多遺跡について

 遺跡は養老川と村田川に挟まれた洪積台地上に立地しています。
 西隣の台地上には古代市原郡の官衙・寺院跡や上総国府の有力な推定地など重要遺跡が連なることから、歴史的に重要な地域の一角と考えられています。
字名である「上細工多(かみせえくだ)」は給免田(きゅうめんでん)が由来と考えられ、中世前期の国衙機構(こくがきこう)との関連性にも注目されています。

 昭和59年(1984年)、市道改良工事に伴い発掘調査を行った結果、掘立柱建物跡、竪穴遺構などの施設跡が発見されました。
 入口施設を伴う外郭溝も見つかり、方形の外郭が想定されます。報告書では周辺台地の歴史的環境や一部の出土遺物などから、古代の官衙関連遺跡と位置付けていますが、それにしては掘立柱建物跡の柱掘形(はしらほりかた)が貧弱なこと、遺物量に乏しいこと、常滑焼や内耳土器(ないじどき)なども出土していることなど、気になる点があります。調査範囲が狭小だったたこともあり、施設跡の時期判定については検討の余地があると考えています。
 今回は外郭溝から出土した中世の石造宝篋印塔(ほうきょういんとう)を紹介し、遺跡の性格について少し考えたいと思います。

中央全体に広がる遺跡調査区を映したモノクロの写真

写真1(上)上細工多遺跡調査区の全景(奥が東京湾)/図(下)遺跡全体図

西区と東区に分かれた長い縦長の長方形のようなものが2つ描かれた遺跡の全体図

出土した石造宝篋印塔について

 外郭施設の溝は数度の掘り直しが認められ、埋まりきる前に土手に置き換えられています。
 この土手の側溝から、2点の石造宝篋印塔笠石が出土しました。

中央にピラミッドのように重なった石と、右上にそれを横に倒したようになっている石のモノクロの写真

写真2 宝篋印塔出土状況

 これらは中型塔と小型塔で、伊豆石と呼ばれる安山岩製です。

 中型塔は典型的な関東式宝篋印塔で、丹精に製作され、古式を呈します。
 笠下二段軒上五段で、隅飾突起は輪郭を回し、軒幅を出ない範囲で若干外傾します。
 露盤は輪郭を二区に取っています。
 穴は垂直に深く穿たれます。
隅飾は塔廃棄時に破壊を受けているため、遺存状態が悪いですが、市指定文化財である応安5年(1372年)銘「将門塔」と比べると、ややシャープさを保つようです。
 同じく市指定の「常住寺宝篋印塔」より意匠が甘いので、造塔年代はこの両塔の中間に位置するものとし、笠石の笠下二段軒上五段が形式化する南北朝期(14世紀中葉)と考えています。

ピラミッドのように重なっていて中央に穴が開いている大きさの違う石が2つ並んでいる写真

写真3(上)遺物写真/図(下)実測図

一つ前の2つの石の写真の破壊部分なども含めて細かく実測寸を描いてある図

 小型塔は西上総地域に広く分布するもので、戦国期の遺跡に出土例が多いことから、15世紀の製品と考えられます。
 上記の中型塔に比べ、粗略な退化形になります。
 笠下二段軒上五段で、隅飾突起は軒と一体化し、露盤とともに輪郭を省略しています。
 なお、穴を上下両面に穿つのは小型塔の特徴です。重量のある大・中型塔に比べ不安定なため、連結の強化を図る必要から取られた措置でしょう。

小型塔と市内の指定文化財との構造の比較を描いた図

図 市内の指定文化財との比較

塔の投棄から考えること

 2点とも埋まりつつある土手側溝に一括廃棄されたものです。
 小型塔の製作を15世紀と推定することから、戦国期以降に投棄されたと言えます。
 施設跡外郭遺構の最終段階、あるいは廃絶直後の出来事と考えています。

 中型塔は四面を鑿状の工具で故意に破壊されており、塔の供養対象を否定するための行為と考えられます。

 供養対象はいったい誰なのでしょうか。
 市内で確認できる14世紀の大・中型宝篋印塔は、周辺に墓域を伴うものと、見晴らしの良い集落背後の景勝地に単独で置かれたものがあり、それぞれに造塔目的は異なると考えられます。
 本遺跡の例がいずれに該当するのか、出土地点が造立地点とは異なるため、現状で明確な判断はできません。
 しかし小型塔はともかく、中型塔の場合は笠石のみでも重量があるため、さほど遠距離を移動したとも思えません。

 ここで施設跡の時期と性格が重要となってきます。
 仮に施設跡が古代ではなく中世の方形館だったとすれば、敷地内に造立された供養塔と考えるのが自然です。
 もしこれが館なのであれば、中型塔の造立年代から、運営期間は14世紀が中心で、15世紀に廃絶を迎えたのでしょうか。
 その際に、供養塔の破壊・投棄という形で、旧勢力の否定行為が行われたのかもしれません。

 あくまでも報告書では中世の館と認識しておらず、そう判断するだけの決定的な根拠にも欠けるため、現時点では一つの可能性の提示に止めておきます。

参考文献

財団法人市原市文化財センター 1999年『能満上細工多遺跡・能満上新関遺跡・能満番面台遺跡・能満旧三山塚』財団法人市原市文化財センター調査報告書第12集
櫻井敦史 2010年「医王寺石造宝篋印塔について」『平成二十二年度歴史散歩資料 石造物から探る郷土の歴史(その一)』市原市地方史研究連絡協議会 所収
古河 功 1982年「市原市常住寺宝篋印塔復元調査記」『庭研』第二一八号 日本庭園研究会編 所収

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