006祗園原貝塚と周辺の集落

更新日:2022年04月18日

西野雅人

—拠点集落の形成と周辺の小さな集落—

 祗園原貝塚(ぎおんばらかいづか)は縄文後晩期を代表する大きな集落です。この集落ができるころ、すぐ近くに小さめの集落が3つ存在しました。

祗園原貝塚を中心とした縄文後晩期の地図
列名を時代変遷、行名を各集落として、赤、青、水色に色分けされた表

 北野原遺跡、南中台(みなみなこんだい)遺跡に小さな単位で住んでいた人たちは、その後、祗園原貝塚の大きな集落に加わった可能性があります。祗園原貝塚に、いったん埋葬した遺体を掘り出してひとつの穴に入れた人骨集積土坑が作られるのはこのころのことです。お互いの集団の祖先を一緒に埋葬することによって、大きな集団でいっしょに暮らしていく意思を確認したものと考えられています。
 亥の海道貝塚(いのかいどうかいづか)については、祗園原貝塚ではなく、同じ台地上の北側に存在した門前貝塚の形成に関わった可能性も考えられます。

白い人骨が四角く掘られた箇所にバラバラに散らばっている状態で発掘された祗園原貝塚の人骨集積土坑の写真

『祇園原貝塚』市原市教育委員会1999年

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