菅原孝標の女の更級いちはら紀行 姉崎神社の路4

更新日:2022年04月18日

宮山遺跡の発掘調査 1986年12月01日~1986年12月27日

土に穴の開いた箇所が複数ある宮山遺跡を、3人の調査員が観察をしている写真

 姉崎神社の境内地は「宮山遺跡」(みやまいせき)として知られています。
 昭和60年(1985年)に社殿が焼失しましたので、再建予定部分の380平方メートルを財団法人市原市文化財センターが発掘調査しました。
 その結果、弥生時代から古墳時代終末期にかけての竪穴住居跡10軒や、中世前半期の掘立柱建物跡3棟などが発見されました。

さとし学芸員のアイコン(さとし学芸員)こんにちは。さとし学芸員です。
菅原孝標の女のアイコン(菅原孝標の女)おっきな凹みがたくさんありますね。
これが「たてあなじゅうきょ」ですか?
なるみのアイコン(なるみ)地面に穴を掘って、上に屋根をのせた建物の跡よ。
建築部材は腐って無くなっちゃうから、地面の穴だけ発見されるわけ。
菅原孝標の女のアイコン(菅原孝標の女)私、知ってる。
私の時代でも、身分の低い人たちは、このような家屋で暮らしてたわよ。

手前の茅葺きを外した竪穴式住居で、3人の人形が生活している様子の写真

上 古墳時代の竪穴住居模型
手前側の茅葺きを外し、中が見えるようにしています。

さとし学芸員のアイコン(さとし学芸員)キミの時代の竪穴住居跡は例が少なくてね、房総ではさほど多くない。
 比較的裕福な人は平地式の住居に住むようになっていて、発掘調査で発見しづらいせいなのかも。
 あるいは人々の住居が広範囲に散るようになって、対象地域の限られた発掘調査では発見しにくいのかもしれない。

 とにかく、どういう階層の人がどのような住居で暮らしていたのか、11世紀はよくわからない時代なんだ。
 まあ、平安時代の中ごろくらいまでは、普通の人はおおむね竪穴住居に住んでいたようだね。

黄土色の土の上に無数の穴が開いている、宮山遺跡での竪穴建物跡の写真

上 宮山遺跡で発見された竪穴建物跡(弥生時代後期)
 火を焚いた炉の跡が、焼けて変色しています。

なるみのアイコン(なるみ)この遺跡の竪穴住居跡は、弥生時代が最古なんですね。
さとし学芸員のアイコン(さとし学芸員)弥生時代でも後期初頭に絞られるようだ。
 久ヶ原式と呼ばれる土器の古い段階のものが発見されているよ。
菅原孝標の女のアイコン(菅原孝標の女)弥生時代の住居跡って、楕円形ですね

白みがかった黄土色の土の上に、無数の穴と四角く囲われた跡が残っている、宮山遺跡で発見された竪穴住居跡

上 宮山遺跡で発見された竪穴住居跡(古墳時代後期)

菅原孝標の女のアイコン(菅原孝標の女)こちらの住居跡は四角いわね。
なるみのアイコン(なるみ)古墳時代の住居跡よ。
さとし学芸員のアイコン(さとし学芸員)この遺跡では、古墳時代の前期末から終末期前半までムラが営まれていたようだね。

菅原孝標の女のアイコン(菅原孝標の女)奈良・平安時代の住居は?
さとし学芸員のアイコン(さとし学芸員)発見されていないよ。
なるみのアイコン(なるみ)姉崎神社が造られたので、住居は境内から押し出されたのかしら?
さとし学芸員のアイコン(さとし学芸員)そうかもね。
調査範囲が狭いから、はっきりしたことはわからないけれど。
菅原孝標の女のアイコン(菅原孝標の女)古代の姉崎神社に関わる痕跡は発見されたのかしら?
さとし学芸員のアイコン(さとし学芸員)この調査では、残念ながら見つけることができなかった。

なるみのアイコン(なるみ)鎌倉時代になると掘立柱建物が建てられたようですね。
菅原孝標の女のアイコン(菅原孝標の女)姉崎神社に関係する建物かしら?
さとし学芸員のアイコン(さとし学芸員)たぶんね。

皿の上は少し欠け、底面もいくつか削れている、宮山遺跡で発見されたカワラケの白黒写真

上 宮山遺跡で発見されたカワラケ(小皿 鎌倉時代)

なるみのアイコン(なるみ)カワラケと呼ばれる土器の小皿が見つかっていますね。

菅原孝標の女のアイコン(菅原孝標の女)カワラケなら、私もなじみ深いわよ。
 でも、なんだか感じが違うわねえ。都で宴会とかに出してたのは、何か、こう、手作りっぽい感じのやつだったわよ。
さとし学芸員のアイコン(さとし学芸員)都のカワラケは手でこねて作った手捏土器(てづくねどき)だからね。
 関東では普通、ロクロで形作ったカワラケを使っていた。もちろんこの遺跡の例もそうだよ。
 東国では、手捏カワラケは、よほどのハレの場でしか使わなかったんじゃないかな。
菅原孝標の女のアイコン(菅原孝標の女)都風の特別な器なんだ。手捏は。
なるみのアイコン(なるみ)ということは、関東で見つかるカワラケはロクロ作りが主で、重要な遺跡に少量の手捏カワラケが入ってくるわけですね。
さとし学芸員のアイコン(さとし学芸員)ところが房総半島では、全くと言っていいほど手捏が入ってこないんだ。
なるみのアイコン(なるみ)平忠常やら上総氏やら、やたらに独立的な豪族領主が君臨した地域ですからね。
 あえて都風の食器を使わなかったのかしら。
さとし学芸員のアイコン(さとし学芸員)全く見つからないことには、何かしらの意味があるのだろうね。
 さて、この遺跡のカワラケは、数えていないから総量がかわからないけれど、一定量はあるようだよね。
 中世の人が宴会を開く場合、使い捨て容器としてカワラケを使ったんだ。

さとし学芸員と菅原孝標の女、なるみの3人が、椅子に座り、机の上にある小皿を持って話をしているイラスト

なるみのアイコン(なるみ)この遺跡でも宴会が行われていたと?
さとし学芸員のアイコン(さとし学芸員)わからないけれど、可能性はあるんじゃないか。
 中世の宴会は政治的な意味が大きかったんだ。階級・階層のちがう人同士が、お互いの主従関係を確認しあう場だったのだね。
菅原孝標の女のアイコン(菅原孝標の女)宴会が開かれる代表的な場所って、領主の館ですよね。
さとし学芸員のアイコン(さとし学芸員)領主館での宴会は、地方では鎌倉時代後期から盛んになるようだ。
 しかしそれより以前は、むしろ寺社で盛んだったとする説がある。
 神仏と人との関係を確認する意味で宴会が行われたのではないか、というわけだ。
なるみのアイコン(なるみ)なるほど。鎌倉時代は、姉?神社でもカワラケを使った饗宴があったのかもしれませんね。この遺跡から見つかったカワラケも時代的に合いますし。
さとし学芸員のアイコン(さとし学芸員)同じような可能性のある例として、市内には片又木遺跡や上総国分僧寺跡が挙げられるね。

菅原孝標の女のアイコンなるみのアイコン(菅原孝標の女・なるみ)次回は姉崎神社境内の隣にある巨大前方後円墳、釈迦山古墳を見学します。ぜひ見てくださいね

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