菅原孝標の女の更級いちはら紀行 島穴神社の路2

更新日:2022年04月18日

式内社島穴神社を訪ねる

 現在の島穴神社は、古代の「島穴神社」の系譜を引くものと考えられています。10世紀前葉に編纂された『延喜式』の「神名帳」に見える古代の官社で、「式内社」と呼ばれます。国司の信仰も厚かったようで、元慶元年(877)には姉崎神社とともに正五位下に叙されたことが『日本三代実録』に記されています。
 島穴神社の祭神は志那津比古尊(しなつひこのみこと)で、同じ式内社である姉崎神社の祭神、科那戸辺命(しなとべのみこと)の夫です。社伝によると、日本武尊が東征のおり、海上で暴風に遭ったので、この地に風神である志那津比古命を祀ったことが始まりとされています。天慶3年(940)には勅願により平将門の降伏を祈祷、後には源頼朝の庇護もあったと伝えますが、天正年間(1573~92)に戦国大名北条氏の兵火により神宝社記などことごとくを焼失したと云います。江戸時代には「寛政の改革」で有名な松平定信や「大岡越前」の子孫に当たる大岡忠愛らの庇護を受け、繁栄します。なお、当社には天長3年(826)の遷移伝承があり、それ以前は現在地から北西約180メートルの地点に鎮座していたと伝えます。
島穴神社の源頼朝伝説
 
治承4年(1180)8月、源頼朝が島穴神社に神田36石を寄進したと伝える。

菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)ちなみに『日本三大実録』(にほんさんだいじつろく)は清和・陽成・孝光天皇の三代を記録した正史で、私の先祖、菅原道真も編纂に携わっています。

島穴神社入り口鳥居へと続く砂利道の写真

4-1(上)メインルートから延びる参道。オニヤンマが飛んでいました(鳥居の左上方)。

島穴神橋を橋の手前から写した写真

4-2(上)上前川に架かる島穴神橋。向こうが社叢です。

稲が植えられた一面に広がる田んぼ、その奥に電車が通っている写真

4-3(上)神社の隣には神饌田(しんせんでん)が広がっています。毎年五月に「お田植え祭」、九月に「抜穂祭」が行われ、神社に供えられます。節分祭には撒餅にして善男善女に頒たれます。
 平成16年の収穫米は千葉県代表米として伊勢神宮の神嘗祭に奉献されました(現地の説明看板による)。

なるみの顔のイラスト(なるみ)神饌田のとなりには、JR内房線が通っています。いにしえの路と杜を、車窓から眺めるのも、趣かもしれませんね。

3羽のカルガモの写真

カルガモの家族

アーチ型の端があり、周辺の草木が生い茂っている写真

4-4(上)参道に戻りましょう。境内前の水路には安山岩製のアーチ橋が架けられています。元市原市文化財審議委員の安藤登氏によると、大正8年(1919)の造立で、石材は福島県産の白河石を、基礎は房州石を使っているそうです。

菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)まあステキ。モダンな感じですね。
なるみの顔のイラスト(なるみ)近代アーチ橋として貴重な文化遺産ですよ。心して渡りましょう。

鳥居から続く参道の奥に木々に囲まれた島穴神社の本殿がある写真

4-5(上)正面鳥居。

狛犬と拝殿を写した写真

4-6(上)狛犬と拝殿。

右から島穴神社と書かれた扁額が掛けられている写真

4-7(上)拝殿には松平定信が文政10年(1827)に自筆奉納したと言われる扁額が掛けられています。

木々に囲まれた島穴神社の本殿に光が差している写真
本殿の縁側で空を見上げている菅原孝標の女と、縁側の柵にもたれかかっているなるみのイラスト
上空を旅客機が飛んでいる写真

なるみの顔のイラスト(なるみ)上空は羽田空港に降りる旅客機の航路なのよ。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)古代と現代が交差する瞬間ですね

この記事に関するお問い合わせ先

市原歴史博物館

〒290-0011 千葉県市原市能満1489番地

電話:0436-41-9344
ファックス:0436-42-0133

メール:imuseum@city.ichihara.lg.jp

開館時間:9時00分~17時00分
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始