菅原孝標の女の更級いちはら紀行 姉崎神社の路7

更新日:2022年04月18日

妙経寺を訪ねる

 古墳群の広がる台地を降り、再び房総往還に戻りました。
 姉崎は五井・八幡と同じく、江戸時代から房総往還の継立場として栄えた街です。入り口には日蓮宗の妙経寺(現在は顕本法華宗)が置かれ、町場と妙経寺双方が同じ都市計画の下に整備されたことをうかがわせます。

文字が消えかかっている「姉ケ崎」と書かれた標識と、片側一車線の道路の両側に建物が建っている写真

菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)また戻ってまいりました、房総往還。にぎやかですね
なるみの顔のイラスト(なるみ)ここはJP姉ケ崎駅前だから、繁華街になっているのよ。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)駅まで行ってみましょう。

JR姉ヶ崎駅全体を少し離れた場所から写した写真
線路の見える駅のホームを高い場所から写した写真

姉ヶ崎駅
 JR東日本の内房線で、五井駅から一つ下った駅です。地名は「姉崎」ですが、駅名は「姉ケ崎」となっています。
 明治45年(1912年)、に蘇我 から 姉ケ崎を結ぶ木更津線の設置とともに開業しました。いちはらの近代化を支えた駅でもあります。

横断歩道のある大きな交差点の写真

なるみの顔のイラスト(なるみ)駅前から再び房総往還に入りました。
江戸時代の町場の中心は、ここのクランクから始まるのよ。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)交差点の部分ね。何となくなごりがあるわ。
なるみの顔のイラスト(なるみ)キリンビールの黄色い看板の左側が昔の町場の中心なのよ。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)さっそく行ってみましょう。
なるみの顔のイラスト(なるみ)ちょっとまって。

赤と白のフェンスの奥に妙経寺の山門が見えている写真

なるみの顔のイラスト(なるみ)まずは町場のはずれにある妙経寺に寄っていきましょう。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)街道の左側にある大きなお寺ですね。
 山門が見えてきた。新しい、綺麗なお寺ね。
なるみの顔のイラスト(なるみ)現在の建物は近年造られてるから。
 妙経寺は歴史ある寺で、平成7年までは江戸時代の本堂も残っていたのよ。

妙経寺の旧本堂のイラスト
なるみちゃんと笠を被った菅原孝標の女のイラスト

なるみの顔のイラスト(なるみ)これは平成7年5月に描かれたスケッチよ。
 解体寸前の旧本堂ね。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)今の境内も悪くないけれど、旧本堂も、いい雰囲気だったのね。
 詣でてみたかったなあ。

 一乗山妙経寺は顕本法華宗の寺で、京都妙満寺派に属します。寛正元年(1460年)、日暁という僧が開基したと伝えられています。戦国時代には土気城主の酒井定隆が短刀一口を寄進したと云われ、寺宝として伝わっています。
 天正19年(1591年)には、北条氏に代わり関東に入ってきた徳川家康により、寺領10石が寄進されています。
 延宝2年(1674年)には徳川光圀が妙経寺に宿泊しています。光圀は著書『甲寅紀行』の中で、当時の妙経寺の伝承を書きとめています。それによると、古くは真言宗であったものが、日暁により法華宗(日蓮宗)に改宗されたと云われていたことが分かります。
 妙満寺流の日蓮宗を保護したたことで有名な領主に、土気城主の酒井氏がいます。酒井氏は領内の寺院を積極的に日蓮宗に改宗させました。この宗教政策は上総七里法華と呼ばれています。
 戦国末期の天正4年(1576年)になると、酒井氏は戦国大名北条氏の配下となり、その後は椎津城の城番として駐留したようです。仮に姉崎の町場がその頃整備されたとすれば、酒井氏もそれなりに関与したことになります。伝説による寛正元年(1460年)の改宗よりも、時代は降ってしまいますが、酒井氏が改宗に関係した可能性があります。

なるみの顔のイラスト(なるみ)妙経寺の境内と周辺は「姉崎妙経寺遺跡」として発掘調査を行ってるわ。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)妙経寺の歴史、考古学的にはどうなのですか?
なるみの顔のイラスト(なるみ)寺に関わる出土品はほとんど江戸時代のものだったわね。戦国時代の終わりのころに使われた陶器が、ほんの少しまざってたくらいかしら。
寺の位置から考えると、継場入り口のクランク部に配置されているから…。
少なくとも現在の境内は、町場を整備する時に、計画的に割り振られたのだと思う。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)姉崎の町場はいつごろ造られたのかしら。
なるみの顔のイラスト(なるみ)慶長12年(1607年)、松平忠昌(結城秀康の子)が1万石を得て姉崎藩をおこしているから、江戸時代の町場の直接的なスタートは、それ以降じゃないかしら。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)それ以前は寒村だったの?
なるみの顔のイラスト(なるみ)はっきりとはわからないわ。
町場の都市計画と妙経寺は深く関わってると言えそうだから、妙経寺は現在の場所で、少なくとも江戸初期までは遡れるわね。
さらに妙経寺は、それより古い伝承を持っていて、内容も具体的よね。
多少移動した可能性はあるとしても、中世からこの地域にあったのではないかと思えるわ。
そういうことになると、戦国時代ごろには街も造られてた可能性があるかもね。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)ひょっとしたら、わずかに発見された戦国末期の陶器がカギになるのかしら。
なるみの顔のイラスト(なるみ)そうかもしれない。
でも、ほんのわずかしか発見されていないからね、
それのみをもって「戦国末期に町場が成立しました」とは言えない状況です。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)でも、妙経寺の改宗に土気城主の酒井氏が関与したとすれば、同時に町場の整備をやっていても不思議ないわよね。
なるみの顔のイラスト(なるみ)うん。もしそうだとすれば、戦国末期を近世的な町場の形成段階と見てよいことになるわね。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)以前散歩した八幡も、戦国末期が近世的な町場成立の画期だったわよね。
なるみの顔のイラスト(なるみ)そういう時代だったのかしら。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)今後の調査・研究が期待されますね。

菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)なるみの顔のイラスト(なるみ)次回は姉崎妙経寺遺跡の発掘調査をレポートします。ぜひご一読ください。

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