君塚天神山古墳

更新日:2022年04月18日

古墳時代後期

君塚天神山古墳 きみづかてんじんやま

君塚天神山古墳全体を横から見た写真

君塚天神山古墳 全景

君塚天神山古墳の墳頂上の石祠の写真

墳頂上の石祠

 現在の市原市の内房線に沿った海岸平野上は、区画整理事業が進み、整然とした住宅地が広がっています。
 君塚天神山古墳は、そのような住宅地の一角にあります。
 後世に手を加えられたようで墳丘は不整形で、本来の形状を留めてはいません。
 ですが、荒れているわけでもなく、地元の方々に大切にされていることがうかがえます。

 海岸平野上の遺跡としては、古くから姉崎二子塚古墳が知られていましたが、現在では、いろいろな時代の遺跡が存在することがわかっています。
 ここで紹介する君塚天神山古墳と供養塚古墳(君塚クワノ木古墳)以外は、内房線より台地側にあることで共通しています。
 内房線が海岸平野上でも比較的地盤の安定したところを選んで通っていると考えられるところから、低地の遺跡の多くが内房線より台地側に選地していることは決して偶然ではないと言えるでしょう。
 また、この点から君塚天神山古墳が内房線より海寄りにあるという点で、特異であるということができます。

 君塚地区には、3基の古墳があったことが知られており、君塚古墳群を形成していたと考えられています。
 これらのうち、供養塚古墳については、昭和54年に発掘調査が行われています。
 当初は、出羽三山信仰に伴う供養塚と考えられていましたが、周溝らしき溝が検出されたことや、石室に使用された可能性のある凝灰岩質砂岩(いわゆる房州石)がまとまって出土したことなどから、もともと古墳であったものを後世に供養塚に転用したものと判断されました。
 墳丘は砂を主として盛られていました。古墳築造当時はあたり一面、砂だらけだったと思われます。
 砂だけでは形を保つのが困難だったでしょうから、粘土を混ぜるなどの工夫をしたようです。
 君塚天神山古墳については、発掘調査は行われず現在に至っています。一辺約23メートル、高さ約3メートルの方墳と考えられています。
 詳細は不明ですが、かつて円筒埴輪が採取されたようです。
 今では、住宅に囲まれて目立たない古墳ですが、築造当初は砂浜にそびえる、一種のランドマークであったかもしれません。

 これら古墳を築いた人たちがどこに住まいを構えていたかは不明ですが、約400メートル東方に君塚西遺跡があって、そこでは古墳時代から平安時代にまたがる時期の土器が採取されることから、この遺跡に住んでいた人たちが、古墳群を築いた可能性もあります。
 この古墳から海側へ約100メートルの部分には、県道千葉・鴨川線が通っています。近世の房総往還であり、古代の東海道の名残とも考えられる道路です。
いまだに推定の域を出ない経路ですが、それに近接して古墳が並んでいることも興味深いところです。
 なお、供養塚古墳については君塚クワノ木古墳として「遺跡の深層」で、古東海道については「更級いちはら紀行」でとりあげられていますので、そちらもご覧ください。

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