姉崎妙経寺遺跡(中世・近世)
戦国末期から
姉崎妙経寺遺跡 あねさきみょうきょうじ
縄文時代からの複合遺跡ですが、近世は妙経寺の境内地として利用されていました。
妙経寺は、寛正元年(1460年)に日暁が開基したと伝えられる顕本法華宗の寺院です。
戦国時代には土気城主の酒井定隆が短刀一口を寄進したと云われ、寺宝として伝わっています。
天正19年(1591年)には、北条氏に代わり関東に入部した徳川家康により、寺領10石が寄進されています。
延宝2年(1674年)には徳川光圀が妙経寺に宿泊しており、その著書『甲寅紀行』の中で、当時の妙経寺の伝承を書きとめています。
それによると、古くは真言宗であったものが、日暁により法華宗(日蓮宗)に改宗されたと云われていたことが分かります。
戦国末期の天正4年(1576年)以降、土気の酒井氏が椎津城の城番として駐留したようですので、酒井氏が妙経寺の改宗に関係しているかもしれません。そうだとすれば姉崎の町場も、戦国時代に成立した可能性が高くなります。
ただし慶長12年(1607年)、松平忠昌(結城秀康の子)が姉崎藩(1万石)をおこしていますので、江戸時代に発展した町場の直接的な景観は、このころ整備されたと考えられます。
江戸時代の妙経寺は鶴牧藩士をはじめとする多くの人々の信仰を集め、境内には大規模な墓地が展開していきました。
その中には、元禄8年(1695年)の「お竹騒動」で遠島となった主人を救った「義僕市兵衛」や、慶応4年(1868年)の戊辰戦争で亡くなった徳川義軍戦没者の墓なども残っています。
平成7年(1995年)に墓地の改葬・移転が行われたさい、17世紀から近代にかけての陶磁器類が多量に出土しました。
骨壺やお供えの品々ですが、江戸時代の人々の生活を示すまとまった資料として重要なものです。
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更新日:2022年04月18日