051市原では珍しい縄文前期のムラの発見

更新日:2022年04月18日

忍澤 成視

遺跡所在地

海保

時代

縄文時代

海保地区の遺跡

 海保広作(かいほひろさく)遺跡は、市原市の北部、養老川の左岸に広がる標高55メートルほどの台地上に位置します。遺跡の北側約1キロメートルには、養老川の造る広大な沖積地が広がり、遺跡の所在する台地上にはここから南北に伸びる小支谷が幾筋も見られ、その間に残された馬背状の台地上に集落や古墳群などの遺跡が展開しています。遺跡の西約4キロメートルに東京湾を臨みます。
 平成18年度に、当該地の広域にわたる開発が計画され、宅地造成に伴う埋蔵文化財調査が翌19年から数年間にわたり行われ、海保小谷作(こやつさく)・海保西竹谷(にしたけやつ)・海保大塚・海保広作の4つの遺跡が発掘調査されました(図1)。前3者は、主に弥生時代から古墳時代の集落や古墳群です。

モノクロの海保地区の地図に4つの遺跡の位置を示した地図

図1 海保地区の遺跡

海保広作遺跡の時期と内容

 一方、遺跡群のうち最も南側に位置する海保広作遺跡は、その主体となる時期が、縄文早期後葉と前期後葉であり、他の3つの遺跡とは全く異なる遺跡内容を示します。また、遺跡の一部には旧石器時代の遺物集中地点、二次的な堆積と見られるものの縄文後期の小規模な貝層なども検出されています(写真1)。

森の中の高台ににある遺跡の調査区の遠景写真

写真1 海保広作遺跡東側調査区遠景

 早期後葉・条痕文系土器の時期には、炉穴25・土坑15基が、前期後葉の浮島・興津式の時期には、竪穴建物5・土坑7基が検出されています。遺構はいずれの時期も遺跡の東側区域を中心に分布します。早期後葉には、長軸約80メートルの範囲に遺構が分布し(図2)、この範囲にほぼ重なるように同時期の遺物包含層も分布しています(図3)。

白地に線画で書かれた縄文早期の遺構分布図

図2 縄文早期の遺構分布図

土器量の凡例 詳細は以下
地図の中を正方形で区切り、一定の範囲内にある土器の量を示すために模様をつけた分布図

図3 縄文早期後葉(条痕文系)の土器分布

 また、この調査区全域からは加熱を受けて変色した子供の拳大ほどの大きさの焼礫が多量に出土しており、その分布が炉穴や土坑などの遺構がある地点と重なることから関連性が示唆されます。土坑中には焼土や炭化物、そして焼礫がある程度まとまって検出されるものがあり、遺物密度は低いものの集石状を呈するものもありました。遺跡内に広範囲に分布する焼礫は、本来はこういった調理施設に伴うものであった可能性があります。ただし、焼礫は早期の土器ばかりでなく後述する前期後葉の時期のものとも混在しているので、厳密にどちらの時期のものなのかを決めることはできません。前期後葉の遺構中にもある程度まとまって焼礫が出土するものがあるので、この時期にも焼礫を使った調理行為が続けられていた可能性があります(写真2・図44)。

左右の2つの塊に分けられておかれた小石の集合写真

写真2 被熱して赤化、黒・灰化した礫

地図の中を正方形で区切り、一定の範囲内にある焼礫の量を示すために模様をつけた分布図とその指標となる模様ごとの数量を示す図

図4 焼礫の分布

縄文前期のムラ

 前期後葉には、数箇所の竪穴建物と土坑が直径約30メートルの範囲に分布します(図5)。そして竪穴建物が集まる地点を中心に、同時期の遺物を多く含む土層が分布しています(図6)。

白地に線画で書かれた、縄文前期後葉の遺構分布図

図5 縄文前期後葉の遺構分布図

土器量の凡例 詳細は以下
地図の中を正方形で区切り、一定の範囲内にある土器の量を示すために模様をつけた分布図

図6 縄文前期後葉(浮島・興津式)の土器分布図

 ただし遺構、遺物包含層ともに、出土した土器は破片資料に限られ器形を復元できるような大型のものはありませんでした(写真3)。特に遺構出土のものは細片で出土量も少ないので、厳密な土器細分は困難でした。確認できた土器型式からすると、浮島1式から興津2式までが見られますが、随伴遺物として諸磯b式が多い傾向にあるので、遺構は浮島2・3式を主体とする時期の可能性が高いと思われます。そして遺構より上位の遺物包含層中には、後続する時期の興津式に加えて十三菩提式や撚糸側面圧痕が特徴的な前期末と見られる時期のものの比率が高くなる傾向が見られます(図7)。

色形模様などが様々な土器の破片が一面に並べられている写真

写真3 遺跡から見つかった主な時期の土器

土器量の凡例 詳細は以下
地図の中を正方形で区切り、一定の範囲内にある土器の量を示すために模様をつけた分布図

図7 前期末葉の土器分布図

 円形や隅丸方形プランをもつ5軒の竪穴建物以外には遺構の存在は希薄ですが(写真4・5)、前期後葉から末葉までムラは存続していたのでしょう。ただし、遺構数が少なく遺構中にはまとまった遺物が見られないことに加え、石器類も石鏃などの剥片石器類は比較的多く見つかっているものの(写真6)、石皿や磨石など通常の遺跡で数多く出土するものが少ない点からみて、長期間永続的に居住するムラは想定しにくいのです。季節的な短期居住を繰り返していたムラであった可能性が高いとみています。

遺構とみられるものを白で囲ってある、遺構の中心地と思われるエリアの俯瞰写真

写真4 前期後葉の遺構集中地点

円形に浅く穴を掘ってあるように見える遺構の拡大写真

写真5 前期後葉の竪穴建物

竪穴建物の後とみられる遺構を斜め上から広く撮影した写真

写真5 前期後葉の竪穴建物

下にルーラーを置いてサイズがわかるようにし、遺跡から見つかった鋭利な石器を並べて撮影した写真

写真6 遺跡から見つかった主な剥片石器

下にルーラーを置いてサイズがわかるようにし、遺跡から見つかった幅広で丸みのある石器を並べて撮影した写真

写真6 遺跡から見つかった主な剥片石器

その他、時期は明らかでありませんが縄文期と見られる土坑25基も検出されています。遺物包含層中からは、早期・前期の時期以外にも、中期後葉、後期から晩期の土器が出土しており、このうち後期中葉の加曽利B式期の遺物は部分的にまとまりをもって出土しています(図8)。遺構としては痕跡を留めてはいませんが、前期以降も一時的に生活の場となっていたものと見られます。

土器量の凡例 詳細は以下
地図の中を正方形で区切り、一定の範囲内にある土器の量を示すために模様をつけた分布図

図8 後期中葉の土器分布図

まとめ

 縄文前期後葉のムラの発掘事例は、市原市内では極めて希です。市内各地の遺跡からは、当該期の遺物が断片的に見つかることはあっても、しっかりとした居住を示す遺構が伴うことはほとんどありませんでした。最近整理報告の行われた国分寺台地区の天神台遺跡からは、広域の調査区内から当該期の遺物がある程度まとまって出土していることがわかりましたが、遺構は全く見つかっていません。したがって、この頃の縄文人が市原においてどんな生活をしていたのかを知る上で、海保広作遺跡の調査成果は極めて重要です。天神台遺跡では、市内では珍しい縄文早期後葉と前期前葉の二つの大きなムラが見つかり、両時期の生活環境や定住的な生活スタイルの様子が明らかとなりました。一方、海保広作遺跡の調査で明らかとなった前期後葉のムラの生活スタイルは、どうやら長く一つの場所に居住し続けるものではなく、季節的に一定期間だけ居住するものであったらしいことがわかりました。ただし、この時期以前、以後にもこの地に人が居た痕跡が認められることから、遺跡の立地した環境が人の居住や生活物資を入手するのにある程度適した場所であったことは確かです。市原における縄文前期後葉の人びとの暮らしぶりについては、今後も新たな発掘調査成果に期待しながら、周辺地域の動向と合わせて注目していきたいと思います。
 なお、今回の調査成果については、市原市文化財センター・刊行物PDFページにて調査報告書のデータをPDF版で公開しています。

参考文献

  • 市原市教育委員会2013年『天神台遺跡I』
  • 市原市教育委員会2015年『海保地区遺跡群II 海保広作遺跡』
  • 国際文化財株式会社2014年『海保地区遺跡群I 海保西竹谷遺跡・海保小谷作遺跡・海保大塚遺跡』

この記事に関するお問い合わせ先

市原市埋蔵文化財調査センター

〒290-0011 千葉県市原市能満1489番地

電話:0436-41-9000
ファックス:0436-42-0133

メール:bunkazai-center@city.ichihara.lg.jp
休所日:土曜日・日曜日・祝日