ノート045 戦時下のいちはら

更新日:2026年06月03日

市原歴史博物館では、令和6年度と7年度に、「戦時下のいちはら」と題した企画展を行いました。特に令和7年(2025)は戦後80年の節目の年となり、当時を直接知る人が減るなかでも、市民等から多くの資料や情報の提供があり、いちはらの戦没者の様相や、いちはらの空襲の様子など、戦時下のいちはらの時代状況が、具体的に見えてきた点がありました。この学芸員ノートでは、その成果をいくつか紹介します。

1 いちはらから戦地へ

昭和6年(1931)に始まった満州事変、同12年からの日中戦争、16年からの太平洋戦争で、日本は15年にも及ぶ戦争状態が続きました。戦時中は志願や徴兵によって多くの若い男性が出征し、戦地に赴くことになりました。当時、20歳になった男性には「徴兵検査」が義務付けられ、合格すると入隊することになっており、20歳未満でも志願すれば入隊することができました。戦況が悪化した昭和19年には、徴兵検査の対象は19歳に引き下げられました。

いちはらからも多くの男性が召集されたと言われています。いちはらから出征し、亡くなった方は何人くらいいたのか、どのくらいの年齢の方がどこで亡くなったのか。市原歴史博物館では、令和6年度・同7年度にかけて、『市原市戦没者名簿』(市原市遺族会、昭和59年発行)から、戦没者の様相を分析してみることにしました。

『市原市戦没者名簿』は、亡くなった年が明治8年(1875)から昭和40年(1965)までの戦病死者・公務死者までを含む2557名が記録されていますが、昭和6年(1931)の満州事変以後昭和20年(1945)までの記録が87%以上を占めています。

同名簿によれば、昭和16~20年の戦没者は2077人。これは昭和15年の市原郡の男性人口3万7036人(『千葉県統計書』)の5.6%が、この5年間で亡くなったことになります。昭和19年は803人、同20年は975人に激増し、戦況の悪化を示しています【グラフ「いちはら出身の戦没者」(昭和6年~20年)を参照】。

全戦没者の平均年齢は26.9歳で、昭和19年の平均年齢は25.7歳、昭和20年の平均年齢は26.8歳であることが分かります。昭和20年には、30歳以下で亡くなった人は676人、31歳以上も290人以上を数え、終戦間際に若者だけでなく幅広い年齢の命が犠牲になったことが分かりました【グラフ「昭和14年(1939)~昭和20年(1945)までの戦没者年齢構成」を参照】。

戦没者の人数 年別グラフ
戦没者年齢別グラフ

 さらに、『戦没者名簿』から戦没地を見てみると、昭和19年は10月以降にフィリピン方面での戦没者が178人と最も多く、次いでニューギニアでの戦没者が144人。同20年はフィリピン方面の戦没者が271人、沖縄が73人、また両年とも中国方面での戦没者も多くいます。アジア・太平洋戦争の激戦地で多くの人が亡くなったことがうかがえます。

2 学童疎開の記憶と戦時下の子どもたち

 昭和12年(1937)に日中戦争が始まり日本中が戦時色を帯びてくると、学校生活の中でも修学旅行等の取りやめや軍事訓練等も行われるようになりました。
 戦争が激しさを増す昭和18年以降、大学生は学徒出陣として戦地へとかり出され、不足した労働力を補うために12~13歳以上の学徒が組織的に勤労動員されるようになりました(学徒動員)。
 大都市への空襲が予想されるようになると、昭和19年6月、政府は東京や大阪など大都市の国民学校初等科3~6年生の子どもたちを地方へ集団疎開させることを決定しました。いちはらでは、東京都本所区(現 墨田区)の柳島国民学校、業平国民学校、牛島国民学校の児童と教員1600人以上を、寺院等に受け入れました。戦局の悪化で、昭和20年6月には岩手県に再疎開しました。

学童疎開の記憶 ―『学童疎開墨田体験記録集』より要約

 業平国民学校小学5年生の時、千葉県市原市の牛久町に集団疎開をしました。昭和20年3月10日東京大空襲があり、東京方面の上空が真っ赤になるほど明るくなるのが牛久町からも見えました。集団疎開先で卒業時期を迎えた上級生の6年生は、喜び勇んで東京の我家へ帰京し、大切な家族と再会を喜んだのもつかの間、たった3日間の一家団らん後、大空襲のため小さな命を失ってしまいました。戦況が思わしくなく、私たちも千葉県市原地区から、岩手県湯川温泉川尻へ身の安全を守るため集団移動しました。初めて山で生活するようになり、飢えとシラミ、ナンキンムシに責められながら、耐えて生きてきました。私は終戦間近の夏に、栄養失調で自力での歩行困難となり、消化不良で衰弱して病床に伏したままになりました。
 戦後大人になってからホテル業界に就職し、学童疎開の思い出の地、千葉県市原市のホテルの総支配人として次世代を担う若手ホテルマン・ウーマンの育成に務めることができました。
(当時 業平国民学校5年 藤本)

牛島国民学校5年1組(男子)は、千葉県市原郡市西村新堀法光寺に学童集団疎開となりました。昭和19年5月ごろだったでしょう。両国駅から蒸気機関車に引かれた列車で五井まで行って小湊鉄道に乗り継ぎ、上総三叉の駅から20分ほども歩いたでしょうか。5年1組34、5人は法光寺に着きました。寮母さん1人、お手伝いの女性2~3人が交代で私たちの世話をしてくださいました。法光寺では本堂に寝泊りしていましたが、布団を畳んでそこが教室にもなりました。勉強は午前中の1、2時間くらいで、午後は農家のお手伝いによく行きました。それぞれに行く家が決まってそこを「シンセキ」と呼んでいました。本当に親戚の家に行くような気持ちでした。晩御飯も食べさせてもらったのが魅力でした。
 幼くして親元を離れた1年間の集団生活。学童疎開は、長い人生の中では「いい経験だった」と思います。でも、子供たちには絶対にさせたくない経験なのです。
(当時 牛島国民学校5年 吉澤)

昭和19年8月初めごろ、それこそ遠足にでも行く気分で最寄りの錦糸町駅に集合し、両国駅から汽車で五井駅まで行き、乗り換えて三ツ又駅で下車しました。出迎えにはおじさんやおばさんたちが馬車などをそろえて待っておりました。湿津村勝間にある龍性院という寺が私たちの宿泊先でした。連れて来てくれた部落の人たちは誰も帰らず傍らに、にこにこしながら立っているのです。そのうち先生が説明を始めました。実はこの寺に泊まる予定であったが、台所、便所など宿泊設備ができ上がってないので、工事が仕上がるまで6年生、4年生1人ずつを1組として地区の農家に分宿させるという訳です。
 私は4年の相沢君と一緒で、連れられて行った家は深山という家でした。その家では5歳の坊やと4歳のお嬢さん、それにおばあさんがおり、みんなにこにこ顔で出迎えてくれました。後で知ったのですが、ご主人は出征しており、おばさん(敏子さん)の弟さんはすでに南方の戦場で戦死をされているとのことでした。翌日から寺の学校に行くべく朝食を家族と一緒にとって、弁当を作ってもらい「行ってきます」と我が家を出ます。
 女手一つで2人の子供を養い、義母の面倒を見、農耕馬を飼いその世話もし、その上今度、我々2人の面倒も見なければならなくなった敏子おばさんの御苦労を見て、私も一生懸命お手伝いをしようと感じました。2か月ぐらいして、寺の準備ができたので寺に戻ることになりました。日曜日は休校なので朝食後はそれぞれの農家へ行きお手伝いをさせてもらいました。毎週一回鳥肉の炊き込みご飯のために、地区の皆さんが持ち回りで鶏を一羽ずつ、さばいて提供してくれるとのことで、私はありがたいものだと思いました。
 その後、3月には6年生は卒業のため帰京するらしいとの話が出てきました。帰る日が3月3日と決まり、戦況が悪化し身の回りの物だけを少し持っての帰京となりました。お世話になった勝間部落の皆さんとの別れもこれまた非常につらい思いでした。
 その1週間後の昭和20年3月9日の夜、東京大空襲により下町一帯は全滅。勝間部落に行った6年生15名のうち消息の分かっている者は私を含め3名だけです。
 お世話になった勝間部落の方々にはなんとお礼を申し上げて良いか、言葉で言い表せません。
(当時 柳島国民学校6年 酒巻)

3 鳴り響く空襲警報

千葉県は、米軍機が東京方面へ往復飛行する経路上にあるため、爆撃機B29や戦闘機P51の機銃掃射による空襲が比較的多くあったと言われます。昭和19年度と同20年度の東海村(現在の廿五里・野毛・町田・海保・島野・飯沼地区)の役場日誌には、警戒警報や空襲警報の発令・解除時刻が記録され、いちはらで激化した空襲の様子がうかがえます。この日誌からは、昭和19年11月頃から次第に警戒警報・空襲警報が増えており、2年で警戒警報計310回、空襲警報計71回が記録されています。昭和20年に限ってみると、警戒警報は259回、空襲警報は55回を数えます【グラフ「昭和19年~昭和20年の月別警戒警報回数・空襲警報回数」を参照】。
昭和20年5月8日には、千葉方面から米軍戦闘機P51が十数機飛来して機銃掃射し、東海村内で死者が出たことも記録されています。これは、現在養老小学校に建つ「学童殉難碑」に刻まれる児童などが亡くなった同日の出来事でした。

昭和19年~20年の月別警戒警報回数・空襲警報回数グラフ

石神地区と山小川地区に墜落したB29爆撃機 ―周辺住民の証言―

日本各地でB29戦略爆撃機による空襲が激しくなると、B29墜落事故も各地で発生しました。墜落現場の住民は様々な関わりをしたといわれています。B29爆撃機がいちはらに墜落したときの記憶を、2人から聞くことができました。

【石神地区に墜落】
昭和20年(1945)4月15?16日に、市原郡白鳥村石神地区(現 市原市石神)の森林で、B29(アメリカボーイング社製の大型戦略爆撃機)が炎に包まれて北から南へ飛来し、白鳥村上空で東に旋回して山中に突っ込み墜落しました。
この時、白鳥村に縁故疎開をしていた方(当時国民学校3年生)から、以下の話を聞くことができました。
「村内にパラシュートで降下した米兵(1名)の取り調べの通訳を頼まれた旅館経営者で料理人の伯父は、取り調べ後の食事でハムエッグを食べたいという米兵のために、ハムの代わりにジャガイモをスライスし、卵とともに調理した。」
この米兵は、その後東京憲兵隊へ送られ、東京陸軍刑務所に収容中、5月26日の空襲で亡くなりました。

【山小川地区に墜落】
同年5月23日、市原郡鶴舞町山小川(現 市原市山小川)上空でB29爆撃機が空中爆発し、墜落しました。 この時、大和田地区に縁故疎開していた方(当時国民学校6年生)から以下の話を聞きました。
「B29墜落の情報が入り、伯母とともに墜落現場へ行った。B29の残骸を見に行くためだった。チョコレートを拾ったが、伯母に怒られ、池に投げ込まれた。当時日本では珍しいチョコレートには、何が入っているか分からないから警戒したのでしょう。」
米兵搭乗員は全員パラシュートで脱出し、東京憲兵隊へ送られ、戦後全員が米国へ帰国しました。


戦後80年以上経ついま、当時を直接知る人が減り、戦争体験を伝承することが難しくなってきています。博物館では、寄せていただいた情報や残された記録を守り、今後もいちはらの戦時下の実態をさらに調べていきます。

この記事に関するお問い合わせ先

市原歴史博物館

〒290-0011 千葉県市原市能満1489番地

電話:0436-41-9344
ファックス:0436-42-0133

メール:imuseum@city.ichihara.lg.jp

開館時間:9時00分~17時00分
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始