ノート013クジラと縄文人【考古】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

忍澤成視

 縄文時代の貝塚からは、時折クジラの骨がみつかることがあります。これらは、何らかの製品に加工されているもののほか、未加工の部位骨の状態で出土します。市原市内でみつかった、これらの一部を紹介しましょう。

青い台の上に10センチメートル定規とクジラの骨を並べて大きさをはかっている写真

上:資料1 能満上小貝塚出土のクジラ骨

資料1

 左は、能満上小貝塚出土のもので、縄文中期末から後期初頭の住居内貝層中からみつかりました。半分ほどのところで折れていますが、残存長は16センチメートルとかなり大型の製品だったとみられます。クジラの肋骨など真っ直ぐのびる骨の一部が使われているようです。

資料1と同様に10センチメートル定規とクジラの骨を並べた写真

上:資料2 西広貝塚出土のクジラ骨

資料2

 左は、西広貝塚出土のもので、縄文晩期の貝層中からみつかりました。一部が欠損していますが、残存長は16センチメートルほどとかなり大きなものです。その形状から、クジラの椎骨棘突起が使われていると思われます。1の資料よりかなり入念に整形されています。ただ、いずれの資料も単に棒状に加工しただけなので、何に使われたものかはよくわかりません。しかし、クジラの骨は大きく硬くしっかりしていて重量感もあることから、道具などの材料としては重宝したと思われます。

大きな器のようになっているクジラの脊椎骨を両手で持っている写真

上:資料3 上高根貝塚出土の大型クジラ脊椎骨

資料3

 左は、上高根貝塚から出土したもので、縄文後期のものとみられます。大型のクジラの脊椎骨の間接面の上下が磨り減って、臼状になった製品です。最大長は40センチメートル以上にもなる大型の骨で、その重量はかなりのものです。石器の石皿と同じように、クルミやクリなど堅果類を磨り潰す時などに使われたのでしょう。この貝塚は、市原市内では最も南に位置するもので、当時の海からはかなり遠く奥まったところにあります。こんな場所にも、海との関わりの強く示す動物の骨が残されていることは注目されます。

平たい角丸四角く四隅から枝分けれしたような骨が延びているクジラの頚椎骨を両手で持っている画像

上:資料4 西広貝塚出土の大型クジラ頚椎骨

資料4

 左は、西広貝塚から出土したもので、同じく大型のクジラの頚椎骨です。3の資料より厚みがなく、平べったい骨です。間接面には使用した顕著な痕跡は見られませんが、何かを置くための台などに使うのには適したかたちなので、たとえば土器を作る際の回転台などに使われたのかもしれません。四方の棘突起が適度な長さになっていることから、この部分をハンドル状に回せば、とても便利に使えそうです。

資料1同様に定規の横にクジラの歯を並べている写真

上:資料5 祇園原貝塚出土のマッコウクジラ歯

資料5

 右は、祇園原貝塚出土のもので、縄文後期中葉の住居内貝層からみつかりました。残存長は6センチメートルほど、素材はマッコウクジラの歯で、その歯冠部(エナメル質部)を切断し、歯根部(象牙質部)が残されています。マッコウクジラは、オスでは体長が18メートルにもなる大型のハクジラのなかまです。その歯は、「牙」というものを除けば、動物のなかでは最大と言われていて、一本の歯の長さが29センチメートルになるものも知られています。一頭のクジラには、何本もの大きな歯が並んでいます(下写真)。縄文時代には、イルカやアシカなど、海の動物の歯をペンダントの一部に加工する(ひもを通すための穴をあける)ものがあります。マッコウクジラの場合、その歯はあまりにも大きく、こういったペンダントにそのまま利用するには不都合だったのかもしれません。表面に光沢があってきれいな歯冠部分を使おうと、この部分を切り取った可能性があり、その残骸が遺跡からみつかったのかもしれません。いずれにしても、マッコウクジラの歯の加工品は、極めて珍しいといえます。

先端は丸いものの手のひらサイズのとがった歯がいくつも並んで生えている写真

上 マッコウクジラの下顎標本

資料1同様に定規の横に先端が丸まった巻貝のような形のクジラの骨を並べた写真

上:資料6 西広貝塚出土のクジラ岩様骨鼓室胞

資料6

 左は、西広貝塚出土のもので、クジラの岩様骨鼓室胞(がんようこつこしつほう)と呼ばれるものです。別名「耳石」とも呼ばれる骨で、分厚い貝殻のような質感をしています。全長は10センチメートルほど、ずっしりとかなり重量感があります。

 このように、市原市内の幾つかの貝塚からは、クジラの部位骨やその加工品が点々とみつかっています。ただし、出土するとしても、一遺跡からたくさんみつかることがないということは注意すべき現象です。縄文時代には、イルカなどを除いては、鯨類を積極的に猟の対象にすることはなかったと思われます。まして大型のクジラともなれば、意図的に捕獲することは不可能です。しかし、現在でも時折ニュースなどで報じられるように、内湾や外洋の海岸に大きなクジラやイルカが単体、あるいは集団で浅瀬に迷い込み、身動きできなくなってやがて死んでしまうという光景が知られています
(下写真 伊豆大島王の浜にて撮影。海岸に打ち上げられたマッコウクジラの子供。体長は8メートルほど)。

ごつごつと大きな岩が転がっている海岸にクジラが座礁している写真

 このような現象を、ストランディング(座礁)といいますが、おそらくこのストランディングは、縄文時代の市原付近の海岸でも時折みられたのでしょう。東京湾は、比較的浅くて懐の深いことで知られる入り江です。この中に迷い込み、行き場を失う大型のクジラも多かったようで、江戸時代に、これらを見物する江戸市中の人々の姿を描いた絵などもあります。「鯨一頭七浦を潤す」という言葉があるように、鯨は古来より利用価値の極めて高い動物として知られています。肉・皮・ヒゲ・脂、そしてその骨や歯、全てが有用資源として使われました。縄文時代においても、ひとたび浅瀬に迷い込み海岸に打ち上げられて身動きできなくなったクジラは、周囲のムラの人びと総出で解体され、骨・歯に至るまで全ての部位が分配されたのでしょう。遺跡から見つかったクジラの骨類はその一部で、一つの遺跡から多量に見つかることがないことは、分配される集団の多さと、自然界からの恩恵を均等に分かち合うという当時の社会のあり方の一端を示しているのかもしれません。

参考文献

  • 忍澤成視 1995年 『能満上小貝塚』 財団法人市原市文化財センター
  • 鶴岡英一他 2007年 『西広貝塚III』 市原市教育委員会
  • 忍澤成視 1999年 『祇園原貝塚』 市原市教育委員会
  • 忍澤成視 2002年 「南総地区の縄文時代」 『市原市南総地区の遺跡と文化財』 市原市歴史と文化財シリーズ第七輯 所収
  • 忍澤成視 2008年 『発掘いちはらの遺跡』2 市原市教育委員会
  • 水口博也 2002年 『クジラ・イルカ大百科』
  • 四日市市立博物館 1993年 『開館特別記念展 鯨・勇魚・くじら クジラをめぐる民俗文化史』

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