ノート014五所四反田遺跡の木製品(1)【考古】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

小川浩一

木器研究の歩み

苔むした太い幹を下から見上げた写真

 遺跡から出土する物(遺物)には、土でできた土器や、石で作った斧などの石器、鉄や銅でできた金属器などがありますが、この他にも木でできたものに木器があります。太古の昔より木に囲まれて生活していた人々にとって、木を材料にして器や道具をつくることは、ごく自然なことでした。日本書紀の神代上巻に「杉または樟(クスノキ)は浮宝(舟)にせよ・・・」(意訳)とあるように、木の樹種を見分けて、適する道具をイメージして製作することは、当時の人々にとって当然のことだったと思います。現代の我々よりも周囲の樹木に真剣に向き合っていたと言えるでしょう。
 では、なぜ木器が遺跡からあまり出土しないのでしょうか?それは、木が有機物のため、酸素があるとバクテリアが繁殖し、木を分解・消失させてしまうため、特殊な環境下に埋蔵されていないと、現代まで残らないからです。その特殊な環境下とは何でしょうか?それは、絶えず空気が遮断されている環境、すなわち水に包含されている状況で現代まで至っていることを指します。このような特殊な環境下にある遺跡は、水田等低湿地に限定されることが多く、木器が考古遺物として一般化しなかった理由の一つとしてあげられます。

2メートル近く掘った穴の中に立っている女性とそれを上から眺めている3人の女性の写真

 しかし、戦前に調査された奈良県の唐古遺跡や、戦後まもなくに発掘され、当時の人々を勇気づけた静岡県の登呂遺跡など、木の道具を大量に出土し全国的に注目された遺跡は、当時から知られていました。ただ、当時は木器の出土が単発的で比較対象できる資料が乏しく、民俗資料を援用した機能研究が中心でした。
 その後、高度成長期を迎えて各地で高速道路建設などの事業が相次ぎ、低地の遺跡調査が爆発的に増えるようになります。それにつれて、遺跡から出土する木器の量も増え、時代ごと、地域ごとに比較対象することが可能になっていきました。

 木器の中で出土量が多く、最も一般的なのは鍬や鋤・田下駄などの農業土木具です。したがって、木器研究の出発点は鍬・鋤をはじめとした「農具研究」でした。

弥生時代の「柄孔鍬」から古墳時代の「着柄鍬」へ

 弥生時代の鍬は、現代の鍬と似たもので、身に孔を開けて柄を通して、身と柄を固定させるものです。ただし、身が厚く、柄孔と身の背までの距離があるなどの特徴があり、重たい構造となっています。また、地域ごとにバラエティがあるのも特徴で、北部九州地方では方形の柄穴を開けた直柄鍬が多く出土しており、朝鮮半島と同一の分布圏にあるのではないかと指摘されています。
 一方、古墳時代に入ると吉備地方(岡山県)で発生した身の背部が軸状に延び、柄の先端と紐で縛って固定する鍬が畿内地方に入り、爆発的に普及していきます。その軸の形状が茄子のヘタに似ていることからナスビ形鍬と呼ばれているものです。なぜ、このような鍬が普及したかですが、この鍬身はいずれも薄い板状を呈していることから、「軽量化」を追求した証しと見ることができるかもしれません。紐で縛って固定し、永く使い続けるためには、身の軽量化を追求するため、薄くする必要があること、背部を柄の太さと同じ径の軸にするまで細く削り込んでいく必要があること等を指摘することができます。実際、ナスビ形鍬の終焉期である古墳時代後期では、極限まで薄く削り込まれた鍬身が出土しています。
 一方、東海地方を中心にした地域では、身が長方形をした杓文字のような形をした、紐で縛って柄と固定する鍬が出現します。東海系着柄鍬とも呼ばれていたもので、東海地方で発生し、爆発的に普及するとともに、関東地方を経て東北地方へ伝播していったとも指摘されています。古墳時代には、大きく分けて2つの着柄鍬の分布圏があったわけです。

五所四反田遺跡と書かれた地図の画像

 その中にあって、5世紀(古墳時代中期)に特異な形態をした「鍬」が出現します。柄孔諸手鍬です。これは主に静岡県の遺跡で多く出土しており、北関東(群馬県新保遺跡・元総社寺田遺跡など)を経て南関東に波及していったのではないかと考えられます。それを大量に出土した遺跡が本市の五所四反田遺跡です(右図参照)。
 五所小学校の校舎建設に伴って行われた発掘調査によって、流路(溝)内に大量の木器が出土し、中から「柄孔諸手鍬」が多く見つかりました。

奥が霞がかっている一面田んぼのような風景を上空から撮った写真

上 五所四反田遺跡全景 東京湾側から内陸に向けて撮影したものです。

土の上に白っぽい丸いつぼ型土器が2つ転がっている写真

上 五所四反田遺跡の遺物出土状況
完形の土器は「坩」(かん)と呼ばれる小型丸底壺。

 これらは、着柄鍬全盛の時代に突如現れた柄孔の鍬であり、前後の時代にその系譜となる鍬は見つかりません。形状は、両端に鍬身が付いているようですが、側面にも切れ込みがあり、柄孔の周りにある舟形隆起も側面の切れ込みを意識して造り出されているようです(下実測図参照)。また、柄孔も丸孔と方孔があり、それによって舟形隆起や切れ込みの形状に違いがあるようです。そして、両端の「鍬身」は一方がU字形の鉄製刃先を装着したような痕跡が観察され、もう一方は割れ口が再加工されているようにも見えます。まったく謎の「農業土木具」としか言いようがありません。一点は柄に装着された状態で出土しており、身が単体で完結していた遺物でないことは明らかです。しかし、装着された遺物を見ると、柄の入射角度が側面の切れ込みに向かって鈍角に開いており、また、鍬表にあるはずの土離れをよくするための舟形(柄孔)隆起が鍬裏にあるなど、どのように使用したのか、何とも不思議です。もしかしたら、農業土木具ではない、木製儀器(身を空に向けて持つような使用か)としての機能を考える必要があるのでしょうか。

左側は四角い穴が開いた板のようなもの、右側が丸い穴が開いた板のようなものの写真

上(左側) 五所四反田遺跡出土の柄孔諸手鍬(方孔)
(右側) 同上 (円孔)

 今回は、五所四反田遺跡出土の木器として柄孔諸手鍬を取り上げ、木器研究の基本である農具研究の歩みと絡めて紹介しました。本市には五所四反田遺跡だけでも1,000点を越す木器の出土があり、種類も農具に限らず、様々な生活用具や祭祀具が出土しており、市原条里制遺跡などの他の遺跡でも木器の出土があります。今後は、それらの木器の紹介と絡めて、木器研究の新たな展開等をご紹介していければと考えています。

黄色い台紙にブーメランのような形をしたものが描かれている絵が2枚並んでいる画像

上 五所四反田遺跡出土柄孔諸手鍬の実測図

持ち手が付いている鍬のようなものの前に穴の開いた板のようなものが2つ並んでいる写真

上 柄孔諸手鍬の着柄状態

参考文献

  • 奈良国立文化財研究所 1993年 「木器集成図録(近畿原始篇)」 奈良国立文化財研究所史料集36
  • 小川浩一 1995年 「五所四反田遺跡検出の木製農耕具について」 『市原市文化財センター研究紀要III』 財団法人市原市文化財センター
  • 山田昌久 2003年 「考古資料大観 8 弥生・古墳時代 木・繊維製品」 小学館

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