ノート015古代養老川流域の墓制について【考古】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

田中清美

1 要旨

 古代東国の一部で特徴的な墓制の「方形区画墓」を中心に養老川周辺での検討を行い、これらの墓制から一地方の歴史的意味合いを考えました。具体的には、先学の研究を簡単に追いながら畿内中央の墓制との関係と墓地としての土地開発の実態および当地域の特徴の究明を目的としました。
 その結果、方形区画墓は、後期古墳の影響のもと、7世紀後半に出現します。埋葬施設も木棺直葬や地下式横穴墓が8世紀前半頃まで存在します。古墳時代から奈良時代にかけては、「火葬墓の出現」という画期があります。武士遺跡では8世紀後半に火葬骨をもつ石櫃埋葬施設などが存在します。
 基本的には「地下式横穴墓→地下式改葬墓→再葬用小土坑」の変遷が認められ、9世紀後半には蔵骨器そのものを除き造られなくなります。また、墳墓群の立地については、ほとんどが台地を広範囲に(原野を)開墾して墓域を設定していることが推定されます。方形区画墓の造立者及び被葬者については土豪層や郡司層が考えられ、土豪層などによる土地私有化が行われました。 当時の空間配置としては、1棟(または数棟)の管理建物(菩提寺)と周辺の方形区画墓を中心とする墓地群の風景が復元できます。

奥に山が広がっている土地に四角く溝が掘られている跡がいくつかある写真

上 上原台遺跡の方形区画墓群

2 当地域の古代の墓制とは

 ここで取り上げます「方形区画墓」とは、7世紀後半から9世紀前半頃に千葉県や茨城県、栃木県などの地域で盛んに作られたお墓です。方墳のように四辺に溝を廻らし(一部は円形もあります)、その中に火葬骨などを埋葬するもので、盛り土は古墳に比べてかなり少量で、大きさは3メートルくらいから10メートルを超えるものまであります。1980年代前半頃から調査例が増え、金丸誠、渡辺修一氏などにより研究が行われ「方形周溝状遺構」などと言われていました。1987年木對和紀氏は遺構の性格からそれらの名称を「改葬系区画墓」と称し、さらに、木棺直葬の埋葬施設を採用するものを「終末期古墳」、それ以外の埋葬施設を有するものを「方形区画改葬墓」に区分しています。この他には、群小区画墓、方形周溝、方形墳墓、区画墳墓、方形区画墓などの名称がありますが、ここでは「方形区画墓」を用いて説明します。

奥に草がたくさん生えている手前で四角く溝を掘っている女性が6人いる写真

上 上原台遺跡の方形区画墓群 調査風景

広い土地にコーンが立ててありその奥に四角く溝が掘られた跡が3つある写真

上 荻原野遺跡の方形区画墓群

 変遷については、浅利幸一氏が「福増山ノ神遺跡」の報告で、埋葬施設からみて「地下式横穴墓→地下式改葬墓→再葬用小土坑」の流れを説明しています。
 当時の墓域空間の様子は、今泉潔氏が上原台遺跡について、広い墓域であるこの台地のはずれに占地する竪穴住居跡1軒を仏教関係者の住まい、もしくは鍛冶工房等のアトリエとし、近接して存在する掘立柱建物跡を出土した瓦より甍棟(いらかむね)建物と考え、仏教との関連の強さを看守できるとしています。さらに、白井久美子氏は、「菩提寺」的な施設が配置されていたと推定されています。
 また、高橋康男氏は、方形区画墓は群を構成する場合と単発的に出現し後に続かない場合がみられ、それを歴史的背景の違いとして捉えています。
 笹生衛氏は墳墓群のあり方を類型化し、「市原郡周辺は7世紀後半から土壙墓を埋葬施設として成立し、8世紀後半以降、石室および石櫃(いしびつ)・木櫃(もくひつ)の火葬墓の埋葬施設が同時に確認でき、さらに地下式横穴墓も加わり、8・9世紀にかけて最も大規模な方形墳墓群が形成される地域」としています。また、これらの被葬者や築造者は、「6・7世紀代に古墳、土壙墓や横穴墓を作った人々の子孫が、8・9世紀代の火葬墓や方形墳墓等から構成される墳墓を営んだと推定できる」と考え、さらに「8・9世紀の墳墓群の中のいろいろな種類のお墓が混在する状況は、葬られた人々の古墳時代以来の立場・身分を反映していた。9世紀以降は姿を消してゆくが、これは6世紀以来の社会構成がこの時代に大きく変化していったことを示している」とも推定されています。
 1995年には、初めて東日本の方形区画墓等の集成が行われました。この中で、安藤美保、篠原睦美氏は、栃木県域と千葉県域に限られるが、方形区画墓は、奈良平安時代を代表する墓制の1つとして「古墳時代後期の群集墳からの継続性を示し、埋葬施設は多種にわたっている。そうした埋葬施設の種類、位置によりそれぞれの性格も異なり、埋葬された人物の身分の差なのか、構築にかかる労力により消滅してゆくものと残るものとの差が現れたのか」検討課題を投げかけています。さらに、時期としては「上限は7世紀後葉、下限は9世紀中葉となり8世紀に盛んに造営されている。」としています。

3 養老川流域の分布と時期変遷

 養老川は、千葉県市原市域の中央部、つまり房総半島の中央をやや南東側から北西方向に流れており、「方形区画墓」は、この河川を望む台地上に分布しています。古代この周辺は行政区画としては上総国で、養老川の右岸は菊麻郡、左岸は海上郡の地域に相当すると考えられています。
 方形区画墓が検出された主な遺跡を挙げると、養老川下流域の右岸から、長平台遺跡、諏訪台遺跡、大清水遺跡、福増山ノ神遺跡、武士遺跡、北旭台遺跡、門脇遺跡、上原台遺跡、左岸では、片又木遺跡、海保野口遺跡、大作頭遺跡、荻原野遺跡、外迎山遺跡、南名山遺跡などです。また、近接する遺跡として、向原台遺跡、南向原台遺跡、千草山遺跡、小田部新地遺跡も取り上げました。これらの遺跡についてその概要と時期別変遷や埋葬形態の特徴などを見てみましょう。
 右岸の諏訪台遺跡は整理中ですが、諏訪台古墳群とともに昭和57年度から昭和63年度まで調査が行われ、方形区画墓が57基以上、また、木棺墓、土坑墓32基以上、地下式坑、地下式土坑、地下式改葬墓、蔵骨器などが多数検出されており、当流域では最大規模を誇っています。
 長平台遺跡、向原台遺跡、東向原遺跡からは、それぞれ1基ずつ検出され、長平台遺跡、向原台遺跡は古墳群が隣接しています。長平台遺跡と向原台遺跡は須恵器長頸壺(8世紀末から9世紀初頭頃)が、東向原遺跡は周溝内より須恵器甕片と布目瓦片がそれぞれ出土しています。
 千草山遺跡は、千草山廃寺の寺域に含まれ、4基が検出され時期は8世紀初めから8世紀第2四半世紀と考えられます。他に地下式坑2、土坑3、蔵骨器1が検出されています。
 大清水遺跡は、武士遺跡の小谷を挟んで北側に隣接しますが、6基確認され(墳丘を持つ方墳も1基存在する)、この内の埋葬施設である地下式土坑からは凝灰質砂岩を使用した石櫃(8世紀後半か)が検出されています。
 福増山ノ神遺跡も2基検出され、出土遺物より8世紀後半から9世紀第1四半世紀の年代が与えられています。他に地下式改葬墓3基、地下式土坑墓3基があります。

奥に工場のようなものが見え、四角く溝が掘られた手前に彫った土を盛った山がある写真

上 大清水遺跡の方形区画墓

横に開いた穴の奥に大きな石のようなものが2つ並んでいる写真

上 大清水遺跡方形区画墓の埋葬施設

 武士遺跡は37基と多く検出され、大きく下記の4期に区分されます。

  • 1期は7世紀後半の「古墳」として3基(うち円墳1基)
  • 2期は石櫃主体部をもつもの(8世紀後半)
  • 3期は埋葬部不明のもの(8世紀後半から9世紀初頭)
  • 4期は地下式坑(火葬骨)(9世紀前半)を持つもの

 また、甍棟(いらかむね)建物を想定させる瓦が出土している場所もあります。。
北旭台遺跡は4基を検出し、出土遺物はありませんが地下式坑や半地下式土坑などを埋葬施設としています。
 門脇遺跡は、竪穴建物跡より「海部郷」の墨書土器が出土し、当時の行政区域などを考える上で重要な資料として注目される遺物があります。方形区画墓は、いずれも一部分の調査ですが7基を検出し、丸・平瓦片の出土や7世紀末から8世紀初頭の竪穴住居跡を切っています。
 右岸最奥部に存在する上原台遺跡は53基と多く、火葬墓(蔵骨器)も10基検出されています。時期は5時期に大きく分けられます。7世紀末は「古墳」として3基、8世紀前半では6基、8世紀中頃が3基、8世紀後半からは増大し8基以上、また、9世紀以降も多く検出されています。8世紀後半以降は数量が多いのですが主体部が検出されなかった例や規模の小さい例、または伴出遺物がない例がほとんどで詳細な時期がわかりません。さらに、後述する荻原野遺跡と同じく、規模や主軸の方向性、近接する位置関係からいくつかのグループにも分けられそうです。また、E地区に掘立柱建物跡などが検出されています。

四角い土の台の上に置かれたどんぶりのような形をした白い土器の写真

上 上原台遺跡出土の須恵器

掘った溝の隙間に置かれた徳利のような形の白い土器の写真

上 上原台遺跡出土の灰釉陶器

 小田部新地遺跡では、2基と地下式土坑墓(地下式小型横穴)2基及び掘立柱建物跡1棟が検出されています。なお、地下式土坑墓からは、土師器で9世紀前半頃の蔵骨器が出土しています。
 左岸では海保野口遺跡は5基、大作頭遺跡は1基ずつ一部の調査ですが検出され、周辺に古墳群がみられます。
 片又木遺跡は、A区とB区より5基が検出されましたが、東側の竪穴建物跡群は9世紀後半以降の時期ですから、竪穴建物跡群が存在する以前の所産ということになります。
 外迎山遺跡は、28基で、他に火葬墓(蔵骨器)4基、土坑2基も検出されています。2基の古墳以外は8世紀後半以降の時期と考えられます。また、蔵骨器では9世紀後半とみられる土師器も存在します。
 荻原野遺跡は、29基でこのうち木棺直葬は5基、また、同じ方形区画墓内で土坑墓と切り合う改葬墓が検出されています。さらに、掘立柱建物跡が3棟以上認められ、1棟は4×6間の総柱で、いずれも台地縁辺部や斜面部に立地しています。時期は出土遺物から8世紀後半と考えられます。
 中高根南名山遺跡は4基で、2基が溝を共有して存在し、8世紀中葉頃の土師器鉢と甕が小石群と伴に溝内から出土しています。

四角く溝を掘られ、田んぼの田のように真ん中に向かって溝が掘り進められた跡の写真

上 荻原野遺跡の方形区画墓

四角が2つずれてくっついたような形で土が彫られた跡の写真

上 荻原野遺跡方形区画墓の埋葬施設

 以上のように、現在のところ右岸では上原台遺跡が、左岸では南名山遺跡がそれぞれ最も上流部に位置しています。しかし、前代の古墳時代では、更に上流域に古墳群や横穴群が存在し、今後の調査によっては上流域の新たな遺構検出も予想されます。

3 土地開発(利用)

 ここでは、方形区画墓の墓域がどのように占地しているか見てみましょう。
 諏訪台遺跡は、ほぼ全域の調査を行っており、未整理ですが、諏訪台古墳群の占地範囲に重なり特にその南側(台地縁辺部)に集中する様です。しかし、古墳群の規模に比較すると範囲は縮少します。
 向原台遺跡、南向原台遺跡は、一部の調査で近接して古墳群があります。
 千草山遺跡は、千草山廃寺跡に伴う占地として推定され、寺域北側全域の調査が行われています(但し谷部分は未調査)。墳墓群は北東側台地縁辺部に存在し、被葬者は僧侶または、造立者と推定される郡司層や地元土豪層として理解されています。
小田部新地遺跡は、ほぼ全域の調査で掘立柱建物跡と墳墓群による小範囲の占地です。前代の古墳群は北側の台地に存在しています(荻作古墳群)。
 大清水遺跡は、一部の本調査ですが古墳と占地が重なり、地下式坑に石櫃を伴うものは台地東側縁辺部に立地しています。遺跡の保存状況がかなり悪いが台地一帯に占地されたと推定できます。
 武士遺跡は、ほぼ全域の調査が実施され、古墳築造後、東西に墓域が大きく広がっていきます。また、瓦葺建物の存在が想定され、竪穴建物跡も墓域との関連が考えられます。
 北旭台遺跡は、狭い台地先端部の調査ですが、古墳時代前期から中期の古墳群が先行して占地され、その後、台地の中央部に並んで4基検出されました。しかし、古墳群はさらに南側の未調査地区に広がっています。
 門脇遺跡は、部分的な調査ですが、7世紀末から8世紀前半頃の住居跡が廃絶した後に9世紀前後に営まれたと推定されます。その範囲は、北旭台遺跡の南側のやや小規模な台地全体と推定されます。
 上原台遺跡は、ほぼ全域の調査(一部は確認調査など)が実施され、前方後円墳を含む古墳群が存在し、その後全体に広がって占地されます。また、東側台地端部には掘立柱建物跡が建てられ竪穴建物跡などと共に墓域の管理等の機能を持っていたと推定されています。
 片又木遺跡は、部分的な調査ですが、方形区画墓が占地された後に隣接して集落が営まれています。

四角く掘った溝の中と外にそれぞれ小さい丸い穴がいくつも彫られている跡の写真

上 上原台遺跡の掘立柱建物跡

種植えのように小さな丸い穴が縦横整列して空いている跡の写真

上 荻原野遺跡の掘立柱建物跡

 外迎山遺跡は、ほぼ全域の調査が行われ、2基の古墳の後にその周辺に広く占地していったと見られます。
 荻原野遺跡も、全域の調査が行われ、8世紀前半の古墳築造後、その周囲を広く占地していったと考えられます。また、先述のとおり台地縁辺部に数棟の掘立柱建物跡が存在します。
 南名山遺跡は部分的な調査ですが、近接する台地縁辺部には多くの古墳群が存在し、台地縁辺部から台地奥の平坦面に占地が広がったと想定されます。
以上の様に、ほとんどが古墳群の立地する場所や、その隣接地に、より広く開発し占地されています。しかし、諏訪台遺跡と北旭台遺跡(一部の調査ではあるが、)は狭い占地になることが伺えます。

4 まとめ

(1)変遷
  1. 中央との関連と地方への伝播
     古墳時代から奈良時代にかけては、「火葬墓の出現」という画期があります。いわゆる「僧道昭の火葬」が端初とされますが、これは仏教思想に基づいた埋葬の簡略化で、その思想により大化2年の薄葬令が出されます。そして森本徹氏などにより「奈良時代に火葬墓を営むことができたのは、律令官人や氏族の中心的人物、そして、僧侶らであったと思われる。」とされ、小田富士夫氏は、それが地方では「派遣される官人の間にも波及した」として、次第に「地方有力氏族や郡衙の官人等の間で行われた」とされています。
     一方、上総地域では「あくまで伝統的な墓制の中に火葬を取り込んでいる」として、「(方形区画墓)は、後期古墳の影響のもと、7世紀後半に出現し9世紀まで続くこの地域では古墳以来の伝統的な墓制の中に石櫃が入り込むのである。」ともされる小林義孝氏の見解があります。
  2. 主体部の変遷
     前述のように、当地域でも後期古墳の影響が残り、木棺直葬や地下式横穴墓が8世紀前半頃まで存在します。また、木對氏は改葬系区画墓の出現期を8世紀中葉に近い前半代と考えています。
     基本的には地下式横穴墓→地下式改葬墓→再葬用小土坑の変遷がみられ、武士遺跡では8世紀後半に石櫃主体部が、また、9世紀前半に火葬骨をもつ地下式坑群が存在します。さらに、荻原野遺跡では土坑墓(8世紀前半頃)を切る改葬墓(9世紀前半頃)が検出されています。そして、外迎山遺跡のように9世紀後半には蔵骨器を除き造られなくなります。
(2)土地開発(占地)

 このような墳墓群の立地については現在までの調査事例から台地上のみで、ほとんどがその台地を広範囲に(原野を)開墾して墓域を設定しています。ただ、以前の古墳の立地とも競合する場合が多く、その開発過程も問題にする必要はあります。しかし、律令制(崩壊)以後の方形区画墓の開発には、須田勉氏のいわれる寺院に対する優遇策(天平一九年一二月乙舛条)「占拠した山野を寺領として施入することによって、合法的に私有する口実を考え・・・」に相当し、土豪層などによる土地私有化が考えられます。
 しかし、今回の分析の結果、その様に旧来の古墳の占地地域から拡大して開発占地する場合と古墳の占地内のより狭い範囲に占地する場合があり、開発の性格の違いがみられます。
 また、高橋氏のいう「群を構成する場合と単発的に出現し後に続かない場合」の違いをそれぞれどう解釈するのかが今後の課題です。

(3)造立の背景(造立者と被葬者)

 方形区画墓の造立者及び被葬者については、土豪層や郡司層が考えられます。「郡司やそれに連なる者、あるいは富裕な豪族層など、在地における有力者が財力を背景にこうした環境を整え、火葬の儀礼をもつ僧侶などと接する機会をもったのであろう。」と言う吉澤悟氏の指摘です。また、方形区画墓の大きさや方向性が時期や被葬者の所属または近親者などの様々な性格の相違が内在されています。
 一方、方形区画を持たずに単独で存在する土坑や地下式坑も被葬者層の違いとして理解できそうです。さらに、上記(2)土地開発(占地)でもふたつの形態に分けられそうであり、それら個々の詳細な分析によって被葬者層の性格などが究明できる可能性があります。

(4)空間の復元

 当時の空間としては、1棟(または数棟)の管理建物(菩提寺)と周辺の墓地群の風景が復元できます。これがすべての遺跡に該当するかは不明ですが、養老川流域では上原台遺跡や荻原野遺跡、武士遺跡に認められます。また、近接する小田部新地遺跡でも小規模にまとまった遺構が確認できます。
 この空間形体(土地利用形体)は、建物を仏教寺院関係の施設と捉えれば寺院に対する優遇策に伴う土地私有化として解釈が可能です、しかし、諏訪台遺跡のように古墳群の占地範囲からかなり縮少する例はどう考えるのか。整理中の遺跡とはいえ今後の課題です。
 一概に言えない理由は、池田敏宏氏のいわれる「8世紀後葉以降、富豪層は、動産や不動産所有を通して私富の蓄積を行い、ある程度自立しつつあったが、その基盤はまだ確固たるものにはなっていなかった。」こともその背景にあるのかもしれません。
さらに、このような形態が消滅するのは9世紀後半以降であり、ここに方形区画墓などとしての築造理由が必要無くなった社会的内容も潜んでいます。

主な参考文献

  • 木對和紀 1997年 「房総における改葬系区画墓の出現期II」 『倉田芳郎先生古希記念 生産の考古学』
  • 木對和紀 1987年 「房総における改葬系区画墓の出現期」 『市原市文化財センター研究紀要I』 財団法人市原市文化財センター
  • 浅利幸一 1989年 「福増山ノ神遺跡発掘調査報告書」 財団法人市原市文化財センター
  • 今泉潔 1995年 「瓦と建物、そのイメージと原風景に関する覚書」 『千葉県史研究第3号』 千葉県
  • 白井久美子 1992年 「上総北西部における古墳終末期の様相」 『国立歴史民俗博物館研究報告第44集』
  • 高橋康男 2002年 「向原台・東向原台遺跡」 財団法人市原市文化財センター
  • 笹生衛 1993年 「第三節葬送」362〜398項 『房総考古学ライブラリー歴史時代(1)』 財団法人千葉県文化財センター
  • 當眞嗣史他 1995年 「上総・安房国の奈良・平安時代の墓制について」 『第5回 東日本埋蔵文化財研究会 東日本における奈良・平安時代の墓制—墓制をめぐる諸問題』 東日本埋蔵文化財研究会栃木大会準備委員会
  • 田中清美 2005年 「方形区画墓等にみる時代(地域)様相」 『駒澤考古第30号』 駒澤大学考古学研九究室

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