ノート016市原市の地質から診た、市原市内の遺跡と地形変遷(予察)1【考古】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

近藤 敏

はじめに

遺跡が所在する土地は、土工事が伴う開発行為の場合に、事前に埋蔵文化財の発掘調査をすることがあります。遺跡に伴う遺物(石器・土器・その他)は動産として、遺跡から持ち出し後世に伝えることができます。しかし、遺跡自体は不動産のため動かして保存することができません。そのため発掘調査で遺跡と遺物の関係は、記録に残すことにしているのです。遺跡の情報はそのような遺構、遺物といった考古資料のほかに、エコファクト(Eco-fact)と呼ばれる遺跡全体を包む環境情報資料があります。その遺跡の時代ごとの環境情報資料は、動植物の生物学から地層地質の地学まで自然科学全般にまたがり、様ざまな用素を含でいます。それら環境情報資料と考古資料の遺構・遺物の関係づけが可能になれば、遺跡が形成された当時の景観としての植生や気候、立地等が復元されることになります。ここでは遺跡に残された土壌からわかる環境情報について、千葉県内や市原市内の事例から読み解くことができる範囲で、地考古学(Geo-archaeology)な見方で、時代ごとや環境地形変遷ごとに述べたいと思います。

関東平野の地図の画像

現代の関東平野

太古のむかし、むかし、房総半島の大部分は海の底

最後の間氷期の約12万年以上前まで、海水面が現在より数メートル高く、関東平野全域はもとより市原市を含む千葉県地域は、南部の嶺岡山系を除き海の底でした。
この時期の関東平野部分の海は東に開いており、これを古東京湾と呼び、これが下末吉海進と呼ばれる時期となります。この時期は世界的氷河期海水準変動に呼応するものです。関東山地の河川から流れ出る土砂が海底に堆積する状態の海底です。そのためそれ以前の海底に堆積したデルタ性堆積物の市原市内万田野の山砂採取場では、山砂利とともにセミクジラや海獣の骨格化石も出土します(楡井1997年)。市原市内の引田の山砂採取跡では、谷地形の部分に泥炭層が堆積し、当時の植物遺体化石(木の実・木の葉等)や大型動物遺体化石(ニホンムカシジカ・ナウマンゾウ)等が発見されています。(近藤1987年)。
その後の古東京湾は約10万年前、8万年前、6万年前には海面の上昇期もありますが、徐々に氷河期の寒冷化が進み、海水面が低下します(貝塚1993年)。また関東地方は下末吉期以降の地殻変動に伴い関東平野に隆起現象が起きて、海水面の低下とともに海底であった部分の上昇が起きます。これで現在の房総半島部分は陸化され、約7万年前には市原市地域は次第に離水をはじめます。
陸地になってから、当時の日本列島は火山活動が頻繁にあり、約10万年前から8万年前に遠方の長野県木曽御岳山第1軽石層(Pm-1)や小原台軽石層の火山噴出物(テフラ)が広く関東地方に降り積り、時期を決定する指標のカギ層となっています。その上は上部凝灰粘土層が堆積しています(遠藤1997年)。

木々に囲まれた中、桜の咲いた木の側に段差になった地面が露出し、一部ブルーシートのかけられている写真

引田の新期ローム露頭

その後赤土と呼ばれる関東ローム層が堆積します。最初に箱根火山の火山灰が関東地方に降り積もり、武蔵野ローム層と呼ばれます。その中に東京軽石層(TP)と呼ばれる約5万年前の箱根火山噴火が、赤土層の下部に黄白色の層に帯状になってみることができます。武蔵野ロームは、箱根火山のテフラですがその後は、約3万年前から富士火山のテフラが主になって降り積もることになります(岡崎1997年)。現在確認されている日本における人類の足跡は、このころから残されているのです。

現在の市原市の位置・地形と気候・植生

雪に覆われている富士火山の上空からの写真

市原市は千葉県北西部東京湾東岸にあり、富士山火山から北北東約135キロメートル、大島火山から北東に約130キロメートルの位置にあります。
富士山は東京湾を隔てて市役所から西方向に丹沢山地の大山越しに見え、視界が良い時は、北方向に筑波山を望むことができます。首都圏の50キロメートル圏内にあり、国道16号線が市北部旧海岸線を東西に縦貫します。
市原市は首都圏では横浜市に次いで面積が広く、旧市原郡のほとんどが市原市となった広域市で、東西約22キロメートル、南北36キロメートルの総面積が368.20キロ平方メートルもあります。市中央部背骨状に養老川が南北に縦断し、臨海海岸部の京葉コンビナート群、北部の養老川デルタ地帯とその海岸平野から、中央部の上総丘陵地域と、清澄山系の市原市最高地点標高285メートルの大福山や、養老渓谷など南部は山間部となっています。

人類が市原市域に住み始めたのは、約3万年前から1万3千年前の時代で、旧石器時代後期と呼ばれ、冷涼な気候の氷河期にあたります。
氷河期といっても日本列島は高緯度地域ではないので、平地には氷河がなく、高い山にだけ氷河が形成されました。
市原市のある関東地方南部のあたりでは、この氷河期の一番寒い時期には、現在の北海道札幌市付近の気候気温に近いと予想されています。その証拠として現在の千葉県内でも、本来寒冷な気候を好む水草のミツガシワが冷たい水の湧水池に生き残り、現在標高1000メートルくらいの山に分布するヒカゲツツジ・ヒメコマツなどの植物が、標高300メートル台の温暖な上総丘陵に遺存しています(尾崎2001年)。それらは、氷河期の寒冷期に房総半島に生育して、後氷期に温暖化した後も高山のない千葉県にとり残されたもので、低山でもほかの植物には生育環境の悪い場所にわずかに生育していると考えられます。

旧石器時代の遺跡

何も植えられていない畑の向こうにある一段高くなった段差の向こうから見える雪の降り積もった富士山の写真

上:新生荻原野遺跡A区から見た富士山

日本は火山列島なので、旧石器時代の遺跡は火山噴出物(テフラ)に埋もれている場合が多いです。特に関東地方南部は、富士箱根火山帯が西側にあり、前氷河期には火山灰などテフラの降下が多い地域です。
火山からのテフラは、広範囲に降り積もり遺跡を広く埋めてしまうので、テフラの時期が確定されれば、そのテフラに埋もれた遺跡のある程度の時期がわかることになります。

分厚く降り積もったテフラには10時期以上の異なった時期の旧石器遺跡が積み重なって発見されることがあります。狩猟等に便利で住み易い場所では、何回もキャンプしたことになります。遺跡は事件現場と同じで、時間の経過につれてモノは腐敗し、汚損し、散逸して破壊されていきます。しかし早い段階にテフラがその遺跡を埋めてしまうとある段階で破壊が止まることになります。それらが状態の良い遺跡となって発掘調査の際、検出されることになります。しかし火山灰は酸性土壌なため、多くのものは分解されてしまいます。少ない情報の遺跡からより多くのものを引き出すことが、大切な作業となります。
現在確認され公に公開されている日本で最古の段階の旧石器時代の遺跡が、草刈遺跡C区の石器群です。
ちはら台ニュータウン建設工事に伴う発掘調査で草刈遺跡C区は、現在の京成電鉄ちはら台駅付近にありました。約3万年まえの最古の石器群の出土した層は、武蔵野ロームの最上部で直径3メートルの範囲から総点数30点の石器、剥片、石核が出土しました(島立2000年)。その場所は現在河口部で千葉市と市原市の境を流れる村田川の右岸中流部を見下ろす台地上位置し、南側に低地を見下ろす狩猟するキャンプには好適地と思われ、県内でも旧石器時代の遺跡が多い地域です。冷涼で乾燥した氷河期の時期でも河川の周囲では樹木があり、当然ながら川の水場があり、獲物になる動物がより多く集まった地域と考えられます。

引用参考文献

  • 遠藤秀典1997年「第2章第7節関東ローム層の地質」『千葉県の自然史』本編2千葉県
  • 尾崎煙雄2001年「第3章森林植生高宕山周辺地域の森林」『千葉県の自然誌』本編5千葉県
  • 岡崎浩子1997年「第2章第6節下総台地の地質」『千葉県の自然史』本編2千葉県
  • 貝塚爽平1993年「東京湾の生いたち」『東京湾の地形・地質と水』築地書館
  • 菊池隆男1993年「東京湾底と周辺地域の第三紀層および第四紀層」『東京湾の地形・地質と水』築地書館
  • 近藤 敏1987年「市原市の先土器時代」『市原市文化財センター研究紀要』I 財団法人市原市文化財センター
  • 近藤 敏1993年「房総半島の新期火山灰の降下について」『市原市文化財センター研究紀要』II 財団法人市原市文化財センター
  • 近藤 敏1995年「テフラの観察について」『市原市文化財センター研究紀要』III 財団法人市原市文化財センター
  • 島立 桂2000年「草刈遺跡」『千葉県の歴史』資料編考古1(旧石器・縄文時代)千葉県
  • 中村正直・岩淵 洋ほか2004年「第1章大地の生い立ち」『千葉県の自然史』本編8千葉県
  • 楡井 久1997年「第4章第4節地下水」『千葉県の自然史』本編2千葉県
  • 百原 新2004年「生物相の生い立ち第2節植物相」『千葉県の自然史』本編8千葉県
  • 吉野正敏・吉村 稔ほか2004年「第2章気候の変遷」『千葉県の自然史』本編8千葉県

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