ノート017市原市の地質から診た、市原市内の遺跡と地形変遷(予察)2【考古】

更新日:2022年04月18日

近藤 敏

はじめに

 「市原市の地質から診た、市原市内の遺跡と地形変遷(予察)1」では、旧石器時代を紹介しました。
 今回は市原市の縄文時代を中心に、気候温暖化に伴う環境変遷と、貝塚時代と呼ばれる千葉の縄文時代の海岸線の遷移について述べたいと思います。
 先に述べました旧石器時代に、私たちが今見ている現在の台地の地形等は、東京湾海岸線近くや養老川流域の低地を除いてほぼ定まり、現在の高台の地形形成が終わりました。今から1万3千年前までの南関東平野の台地は、富士山等の火山灰に2メートル〜3メートルも覆われて、褐色から黄褐色の赤土と呼ばれる乾いた平原が広がっていました。氷河期は終わり、次第に温暖化が進みはじめる1万2千年前から1万年前には、大地上にあった氷河が溶けだし、海水面が次第に上昇を始めます。現在よりも100メートル以上海水面が低かった当時東京湾は、干上がっていましたが、水深20〜30メートルの浅い海底にも海水が次第に入り込んできます。

黒い背景に所々ヒビの入った白い貝をアップで写したヤマトシジミの写真

ヤマトシジミ 西広貝塚出土

東京湾入口の湾西岸にある神奈川県横須賀市の夏島貝塚には、縄文早期初頭の貝塚が形成されます。同じ頃、東京湾東岸湾奥の船橋市取掛西貝塚では、当時の竪穴住居跡内にヤマトシジミの貝層が発見されています。これは縄文時代早期の前半時期には現東京湾に近い範囲まで海水が流入し、船橋市沿岸では海水と真水が混ざる汽水域が広がり、ヤマトシジミが獲れる海岸環境が成立していたと考えられます。

市原市の貝塚が形成された当時の海岸環境

 今から6千年前から5千年前は、東京湾内は、現在より海水面が3メートルほど高く、また現在より年平均海水温が2〜3度高くなっていたと推定されています。海水面の上昇と海流の影響で、海岸線の浸食が始まります。養老川右岸の樹枝状台地に、北東から南西方向に一直線に海に浸食されたのは市原台地です。一方の、養老川左岸の東西方向に浸食されているのが姉崎台地です。市原市と袖ケ浦市境の、内房線の姉ヶ崎駅から長浦駅間の内房線沿いの台地の浸食崖は、海が陸地を削った痕跡です。
 縄文時代前期前半の、海水が内陸の埼玉県の北部から群馬県南部まで、最も奥まで入り込んだ時代の東京湾を奥東京湾と呼んでいます。それより少し前の縄文時代早期後半時期の、市原市内の村田川流域では、海水が草刈地区まで侵入して、村田川湾を形成し、台地上の草刈六之台遺跡では、小規模な貝塚があります(西野2001年)。図の村田川右岸現在低湿地の、当時の浜辺に立地する千葉市浜野川神門遺跡前面では、沿岸水の洗う比較的水深のある海で干潟は未発達であり、出土した動物群は、成長の悪いハマグリ、サバ、ソウダガツオなどの回遊魚、イルカなどを含み推定環境と調和する内容となっています(植月2007年)。

縄文早期後半・天神台遺跡の貝塚

 天神台遺跡は、現在の諏訪1〜2丁目の上下諏訪神社のある台地にありました。
 今から約7千年前頃、先の村田川湾と同じ時期の養老川右岸の天神台遺跡は、台地上に縄文早期後半の住居跡16軒、炉穴552基、地点貝塚33か所と遺跡規模が非常に大きい遺跡です(浅利1988年)。
 これは、当時の天神台遺跡は前面西側が深い海ながらも、南側には養老川が堆積した砂浜が広がり、海産物を豊富に育む浅瀬があったことを意味しています(図の縄文時代早期の海岸線)。
 貝塚に含まれる貝種には小形のハイガイが含まれ、集落下の浜辺の一部は、砂泥質の内湾のようになっていたと思われます。
 天神台遺跡は千葉県内でも珍しい大規模早期の地点貝塚遺跡であり、集落内の住居もロングハウスと呼ばれる長大な掘り込みの深い竪穴住居が、5棟以上調査されています。貝塚遺跡であるため、獣骨やその他有機物が多く遺存しており、当時のヒトの全身骨格も検出されています。現在整理刊行作業を進めており、房総半島の新しい縄文時代早期像が現れることと期待されます。

固められた地面を四角く区切って掘り下げ、その中に白っぽい盛り上がった地面がある発掘中の遺跡の写真

上 天神台遺跡の住居内貝層

掘り下げられ、点々と穴が空いている地面に立つ複数の人々を上から写した写真

上 「ロングハウス」と呼ばれる大型の竪穴建物跡

縄文時代前期の貝塚は市内では未発見

 前述のように高い海水準安定期前半の、縄文時代早期後半では貝塚がありますが、その後の高海水準安定期後半の、今から6千年前頃の、縄文時代前期前半の天神台遺跡には、関山式期の住居が約40軒ありながら、貝塚は形成されませんでした。生業の形態が変化したためか、不適応か、謎の部分です。
 奥東京湾の埼玉県の貝塚は、縄文時代前期に主要な貝塚遺跡がありますが、千葉県内では、「一般に貝層の規模は小さく、貝類の食糧としての価値は低い。…中略…貝層中に含まれる魚骨・漁具は少なく、積極的に水産資源を利用していた証拠に乏しい」とされています(植月2007年)。当時の海岸干潟の形成が進まない状況であると、それに伴い海産物の生息域の拡大もない可能性もあり、今後の研究課題です。

市原市の主要遺跡や貝塚の場所が書かれた地図の画像

市原市貝塚位置図 (近藤1993年を改図)

引用文献参考文献

  • 浅利幸一1988年「諏訪台遺跡」 『市原市文化財センター年報』 昭和63年度
  • 植月 学2007年「縄文前期の環境、生業と定住性」『日本の美術』No.496 縄文土器前期 至文堂
  • 遠藤邦彦1994年「第五章総括」 『縄文時代以降の松戸の海と森の復元』 松戸市立博物館
  • 小杉正人1989年「完新世における東京湾の海岸線の変遷」 『地理学評論』62(五)
  • 小杉正人・松島義章1991年「村田川低地における縄文時代の食料資源の供給源としての海域古環境の復元」 『千葉市神門遺跡』千葉市教育委員会・財団法人千葉市文化財調査協会
  • 近藤 敏1993年「市原市内出土の非在地系土器」 『市原市文化財センター研究紀要』II  財団法人市原市文化財センター
  • 佐藤 隆・新田浩三1997年「市原条里制遺跡(県立スタジアム)の調査成果」 『研究連絡誌』第四九号 財団法人千葉県文化財センター
  • 東木龍七1925年「地形と貝塚分布に見たる関東低地の舊海岸線(上中下)」 『地理学評論第2巻下第7号〜第12号 日本地理学会
  • 樋泉岳二1999年「東京湾地域における完新世の海洋環境変遷と縄文貝塚形成史」 『国立歴史民俗博物館研究報告』81
  • 西野雅人2001年「市原市草刈六之台遺跡の縄文時代早期貝層」 『研究連絡誌』第61号 財団法人千葉県文化財センター
  • 松島義章2006年「貝が語る縄文海進—南関東、+2℃の世界』 有隣新書
  • 森脇 広1997年「第一節沖積平野」 『千葉県の自然史』本編2 千葉県

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