ノート030縄文編布(アンギン)の編み構造について【考古】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

小川浩一

「編布とは何か」

 「編布」と聞いて、みなさんは何を想像するでしょうか?文字通り、編んだ布、具体的には、カラムシなどの植物の繊維を使って編んだ布のことですが、これは、縄文時代から続く技術であることが、これまでの研究で解明されてきました。

 1961年から1962年にかけて、鏡山猛氏が、九州地方の縄文時代晩期の土器の表面に付着した編布目や網目に注目し、「組織痕土器」と称して、広範囲に資料を収集し、編布や織布の成り立ちの研究を行いました。また、小笠原好彦氏は、縄文時代晩期の佐賀県女山遺跡出土の浅鉢外面に付着した編布圧痕から、つる状の編物でできた型に粘土を貼り付け、鉢状に型取りし、その型から粘土をスムーズに離すために編布を中敷きとして使用したという「型造り」法と呼ばれる土器製作法の解明を行いました。
さらに、「編布」(アンギン)の呼称を付けた伊藤信雄氏や、繊維学の布目順郎氏、歴史学の角山幸洋氏らによって、研究の裾野が広げられていきました。

「組織痕」の付いた土器と編布

 では、縄文時代の遺跡から出土する編布とは、どのような構造をしているのでしょうか。写真1・2は、出土編布に多く使われる素材と考えられる麻の一種であるカラムシ(苧麻)(写真3・4)、から採取した繊維(原麻)を編み込んで作った、一般的な縄文編布の復元品の編み構造写真です。

縄文編布と「越後アンギン」

 鏡山猛氏らによる「組織痕」の付いた土器の発見によって、特徴的な土器製作法が明らかにされたことはもちろんのこと、それまで、編布の出土がなかった西日本にも編む技術が存在していたことがわかりました。組織痕の正体は、蓆(むしろ)目と呼ばれる麻などで作られた編布や、網目、また織布状のものも含まれていると考えられます。

 麻などの緯材を、同じく麻を初めとした紐状の植物繊維で絡み編む技術は、西日本においても、縄文時代晩期には存在していたのです。

先端が結ばれた長い薄茶色の縄が上部より左から右へ、折り返し右から左へと15列繰り返されている様子の写真

写真1 縄文編布

先端が結ばれた長い薄茶色の縄が上部より左から右へ、折り返し右から左へと繰り返されている様子の拡大写真

写真2 縄文編布の編み構造

岩で作られた壁や岩の道に緑色の葉が群がって生えている様子の写真

写真3 カラムシの群生

緑色のカラムシと呼ばれる植物が生き生きと群がって生えている様子の写真

写真4 カラムシ

 ちなみに、越後アンギンは、苧引き金(おひきがね)と呼ばれる金属製の道具を使って、茎から原麻を採取しますが、縄文時代には、トコブシなどの貝を使って(写真5・6)、原麻を採取していたのではないかと考えられています。

赤茶色で上部右側に均等に小さな穴があいている楕円型のトコブシという貝の写真

写真5 トコブシ

キラキラと七色に輝いているトコブシの貝殻の裏側を指で押さえて見せている様子の写真

写真6 トコブシの刃部

 写真2を見ると、1本の緯糸を、2本の経糸で前後から絡みながら編み込んでいる状況が、わかります。この編み方は、現代の簾(スダレ)の編み構造と同一です。編み方は単純ですが、1本ずつ緯糸を経糸が絡み込んでいくため、緯糸間の隙間が広く開く構造となっています。

 一方、新潟県十日町地方周辺の越後地方に今も残る編布技術である「越後アンギン」の編み構造写真(写真7・8)を見ると、2本の緯糸を、2本の経糸で前後から絡みながら編み込んでいる状況がわかります。先述の出土(縄文)編布の欠点である緯糸間の隙間が広く開く構造を改良するために、また、編み速度の迅速化を図るために、編み技術が変化したのではないかとも考えられます。

 ただ、縄文編布と、越後アンギンの違いで、もうひとつ注目しなければならないのは、経糸の絡み方です。縄文編布の多くは、経糸を左絡み(右上から左下へ)に、緯糸を編み込んでいきますが(写真1・2)、越後アンギンでは、経糸を右絡み(左上から右下へ)に、緯糸を編み込んでいくことが多い(写真7・8)と言われています。

 なぜ、このような「改良」が行われたのか、また、いつ技術の画期があったのか、弥生時代から鎌倉時代まで、資料が断絶していることから、解明されていません。

薄茶色の毛糸を左から右へ、そして反対に折り返しというのを繰り返し、縦にも毛糸を編んで上で結ばれてつくられた四角の布の写真

写真7 越後編布

薄茶色で左右上下に編まれた四角の布の拡大写真

写真8 越後編布の編み構造

「越後アンギン」の歩んできた道

 越後アンギンがいつごろ生まれたのか、はっきりしていません。ただ、江戸時代後期、新潟県南魚沼郡湯沢町の鈴木牧之(ぼくし)が、近接する山間部である秋山郷周辺をフィールドワークして記録した「秋山記行」には、すでに木綿の着物が一般的となっていた当時にあって、山間部の人々が、苧麻製の袖なしを着用していることに驚きを持って記述しています。少なくとも江戸時代後期には、すでに山間部のごく限られた地域にしか存在していなかった衣服であることが、わかります。

 また、鎌倉時代中期より伝わる時宗の僧侶が着用する法服である阿弥衣(あみぎぬ)は、すでに越後アンギンの編み方で編まれており、弥生時代から鎌倉時代中期までの間に、編み構造の変化があったと考えられます。

「編布圧痕」土器と出土編布

 縄文時代晩期を中心に、編布が出土した遺跡は、東日本を中心に12遺跡あり、土器に付着した編布の圧痕の存在から間接的に編布の存在を示す「編布圧痕土器」に至っては、九州地方を中心に東日本においても出土が確認されています。

 現在のところ、本県や東京都・神奈川県などの南関東の遺跡からの出土は確認されていませんが、特殊な環境下でしか出土しない編布の他にも、土器成形時に編布やスダレ状の編み物を、底に敷く敷物として回転台のように使っていた可能性はあると考えられ、今後も注目していきたい遺物です。

参考文献

  • 小笠原好彦 「縄文・弥生式時代の布」 『考古学研究』 第17巻 第3号 1970年 考古学研究会
  • 尾関清子 『縄文の衣』 1996年 学生社
  • 名久井文明 「民俗的古式技法の存在とその意味」『国立歴史民俗博物館研究報告』 第117集 2004年 国立歴史民俗博物館
  • 渡辺 誠 「愛知県刈谷市天子神社貝塚の編布圧痕土器」『古代文化』 第59巻 第1号 2007年 古代学協会

この記事に関するお問い合わせ先

市原歴史博物館

〒290-0011 千葉県市原市能満1489番地

電話:0436-41-9344
ファックス:0436-42-0133

メール:imuseum@city.ichihara.lg.jp

開館時間:9時00分~17時00分
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始