ノート031二種の銅釧(前篇)【考古】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

木對和紀

はじめに

 市原市を含む南関東一帯は、弥生時代後半から古墳時代前期にかけて、銅釧(どうくしろ)と呼ばれる青銅製のブレスレットが大変流行した地域でした。全国的に見てもまれな有鉤銅釧(ゆうこうどうくしろ)が6遺跡6点、帯状円環型銅釧(おびじょうえんかんがたどうくしろ)が14例50点も発見されているのです。
 今回はまず市原市から出土した1点の有鉤銅釧について、これまでの研究成果(おもに木下尚子氏の論考(木下1996))に基づき位置づけてみたいと思います。

市原市北旭台遺跡出土の有鉤銅釧
一部が掛けている 青銅製の腕輪の写真

有鉤銅釧のルーツ

 現在全国で33遺跡83点(瀧瀬2006に追加)の出土例が知られる有鉤銅釧のルーツは、沖縄周辺に生息する大きな巻き貝、ゴホウラ(下写真)の貝殻を縦に輪切りにした「貝輪かいわ」までさかのぼります。この貝輪は、弥生時代前期に北部九州地域で出現したのち、中期後半頃になって「ゴホウラ製立岩型貝輪」として盛んにつくられました。

ゴホウラの貝殻
ゴホウラの貝殻が2つ並んでおり、隆起している大結節の箇所を示した写真

 初期の縦切り型のゴホウラ製貝輪はかなり厚いものでしたが、時代が下るとともに腕に数多く装着する風習(貝輪多連装着)が生まれ、規格的に厚みも1センチメートル前後に抑えられるようになります。また同時に、ゴホウラの一大結節(上写真)を意識的に研磨して強調した鉤状突起(かぎじょうとっき)もつくりだされるようになり、これらの形状が有鉤銅釧のモデルになったと考えられています。ほぼ同規格の立岩型貝輪の多連装着例の一つには、福岡県飯塚市立岩堀田遺跡34号甕棺墓の成人男性右腕を飾った14連装の立岩型貝輪があります(下図)。
 ところで、ゴホウラ製の立岩型貝輪は、性別のわかる人骨に着装された例から、全て男性の右腕に着装されたことがわかっています。弥生人にとって、ゴホウラ製貝輪(金隈型・土井ヶ浜型・立岩型)は、男女共用の「広田型」と、壮年女性と判断された1例の「諸岡型」を除き、選ばれた男性だけに許された「男性専用の貝輪」として認識されていたようです。

ゴホウラ製の貝輪 (木下1996より)
出土されたゴホウラ製の貝輪を描いたイラスト

貝輪の需要と供給

 さて、ほぼ規格的になった立岩型貝輪が流行した段階、すなわち有鉤銅釧のモデルが生まれたころの需要と供給の関係はどうだったのでしょう。
 ゴホウラは沖縄周辺のサンゴ礁外洋の深い砂地に生息するため、その採取は現代以上に困難です。おまけに貝殻が肉厚で、貝輪に使用する部位の厚さが8センチメートル前後もあるため、鉤状突起付きの貝輪製品として厚さ1センチメートル前後に加工するには、入念な加工と研磨が必要で、完成までには相当の時間を費やしたはずです。
 このような採取と加工が困難な貝をつかった腕輪を多連装するためには、はじめに採取段階で一定の大きさの貝を捕獲し、数十個単位の加工を施さなければ需要者へ供給できません。
 原貝採取者・加工者の他に、南海から九州へ調達する運搬者がいたとすると供給量にはおのずと限りがあったはずで、大量のストックでもない限り、この頃北部九州地域にあった需要を満たすことはむずかしかったと思われます。立岩型貝輪はなかなか入手できない、いわば「納期待ち」の状況がしばらく続いていた。だからこそ、この貝輪を身につけられるのは、ムラの選ばれた者だけで、貝輪はそのステータスシンボルになりえたのです。

九州の有鉤銅釧 (木下1996より)
佐賀県茂手遺跡で出土された有鉤銅釧が描かれた標本
左:佐賀県桜馬場遺跡で出土された有鉤銅釧A が描かれたイラスト右:佐賀県桜馬場遺跡で出土された有鉤銅釧Bが描かれたイラスト

弥生人の意識変化

 初期の立岩型貝輪は、貝の螺旋(らせん)構造をたくみに活用した幅広な貝輪でしたが、貝輪多連装の流れの中でその厚みが減少しはじめ、弥生時代中期の終わり頃にあたる最終段階には、螺旋構造をデザインとして求めず、ゴホウラの一大結節部を入念に研磨した鉤状突起を強調した貝輪へと変化します。その背景には多連装を目的とした定型化があったと考えられます。
 定型化は本来、量産に適した体制であり、そういった意味では原材料が豊富で入手・加工がしやすい製品にとって理想的です。しかしゴホウラの場合はこの正反対です。
 立岩型貝輪が入手困難となった北部九州の弥生人は、いち早くこの状況に反応しました。「貝の腕輪の貝が入手困難であるならば、原材料は貝でなくてもよいのではないか」と、発想の転換が行われたようなのです。すでにこの頃の北部九州では、銅剣や銅矛などの青銅器職人が活躍し始めていて、貝輪職人から青銅器職人へと発注先を転換すれば、いつでもどこでも多量な生産が可能な状態でした。地域の時代背景と弥生人の意識変化が、素材を貝から青銅へと変化させる大きな原動力になったのでした。

有鉤銅釧の鋳型 (木下1996より)
福岡県香椎遺跡より出土された有鉤銅釧の鋳型が描かれたイラスト

鉤状突起の意味

 立岩型貝輪の最終段階は貝本来の螺旋構造を放棄し、ゴホウラ特有の鉤状突起を強調したデザインへと変化しています。つまり、鉤状突起さえ保持していれば、素材が貝から青銅へと変化しても「可」とする考え方が生まれていて、立岩型貝輪を有鉤銅釧に変化させる背景にその意識が大きく影響したと考えられます。
 それでは、そこまで大事にされた鉤状突起の「鉤」にはどんな意味があるのでしょう。残念ながら明快な定説はありません。しかし「どこかへ行こうとする魂を、鉤状突起にひっかけて繋ぎ止めるためのもの」という説は魅力的な解釈です。同じような鉤状デザインをもった巴形銅器(ともえがたどうき)が作り出されることも考え合わせると、北部九州の弥生人が「鉤状突起が不老長生や不死につながる」と感じていた可能性も否定できないからです。
 南海産の貝輪には、もともとその螺旋構造に悪いものを遠ざける呪力があるととらえられていた可能性があり、これに「魂をつなぎ止める」鉤状突起が加わった立岩型貝輪は、想像をたくましくすれば、観念上、より強力な貝輪だったと言えるでしょう。そうすると、立岩型貝輪最終段階での原貝の螺旋構造を放棄した時点では、強調した鉤状突起を持つことによって、かろうじて観念的に「強力な貝輪」の意味を残したと言えます。すなわち、鉤状突起と結びつく観念こそが青銅器化する際の「大義名分」だったのではないでしょうか。

イモガイ製貝輪とそれを写した銅釧 (木下1996より)
イモガイ製縦切り型貝輪(道場山K48遺跡)のイラスト
イモガイ型銅釧(千々賀遺跡)のイラスト
銅釧の分布

有鉤銅釧一覧は下記リンクをご覧ください。

九州、四国、中国、中部地方の銅釧の分布を示した地図

有鉤銅釧の展開

 有鉤銅釧が、まず北部九州で成立していることは、その鋳型の検出例からも明らかです。しかし、有鉤銅釧には北部九州に分布する鋳型をもって製造された製品が現在のところ出土していません。また、これまでに見つかっている80点あまりの有鉤銅釧の形状は、遺跡ごとでいずれも微妙に異なっています。遺跡出土の最多例は、佐賀県唐津市桜馬場遺跡の甕棺墓内から検出された2種の鋳型による26個体で、次いで、ガラス製釧とゴホウラの可能性が高い貝輪が伴う京都府与謝郡与謝野町(旧岩滝町)大風呂南1号墓の13個体(白数他2000)、福井県鯖江市西山公園遺跡一括出土の9個体が知られていますが、他は多くて2~3個体、大多数が1個体の出土です。また、これまでの出土傾向から、有鉤銅釧の「鉤」概念を積極的に受容して生産する地域には、北部九州、本州の瀬戸内・大阪湾岸地域、北近畿、東海・南関東地域があったようです。
 この中でも、伊豆半島の沼津以東の有鉤銅釧は、他地域と異なり、環部の帯状化と鉤状突起の扁平化指向の共通性が強く、東日本に分布する女性専用銅釧の帯状円環型銅釧(次回に詳述)と扁平志向の類似性があり、分布域もよく重なります。つまり、有鉤銅釧と帯状円環型銅釧は、その形状から男女の腕輪として、それぞれセットでほとんど同時に伊豆以東の南関東にもたらされたものと想定されるのです。
 南海産貝輪にルーツのある有鉤銅釧の分布は、弥生時代中期後半に北部九州に始まり、弥生時代後期に盛行し、古墳時代前期前半で終焉に向かいます。北旭台遺跡の古墳時代前期の竪穴住居跡から出土した有鉤銅釧は、現在のところ、その流通範囲の東限と使用年代の下限を示している点で貴重な事例と言えるでしょう。
(つづく)

引用参考文献

  • 木對和紀1990年「千葉県北旭台遺跡出土の有鉤銅釧」『考古学雑誌』第75巻 第3号
  • 木對和紀1990年『市原市北旭台遺跡』財団法人市原市文化財センター
  • 木對和紀2004年「帯状円環型銅釧について」『市原市辺田古墳群・御林跡遺跡』市原市教育委員会
  • 木下尚子1996年『南島貝文化の研究』法政大学出版局
  • 白数真也他2000年『大風呂南墳墓群』岩滝町教育委員会
  • 瀧瀬芳之2006年「有鉤銅釧について」『宮台・宮原遺跡』埼玉県埋蔵文化財調査事業団
  • 橋口達也1987年「貝輪・腕輪」『弥生文化の研究』8 祭と墓と装い 雄山閣

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