ノート042鶴峯八幡宮収蔵「記録之事」―江戸時代の由緒書の紹介【歴史】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

西 聡子

1 鶴峯八幡宮で見つかった古文書

 今回は、当ホームページでは初となる、地上に眠る「文化財」として、鶴峯八幡宮で新たに確認された神社の由緒に関する古文書を紹介したいと思います。現在、市原市では、「いちはら歴史のミュージアム整備事業」の一環で、各地域の歴史資料の掘り起こしに努めています。そうした動きの中で、これまで未発見であった古文書も数多く見つかっています。今回紹介する古文書は、2018年10月、鶴峯八幡の神楽を映像記録として制作する際の調査で見つかりました。
 鶴峯八幡宮は市原市中高根にある神社です。建治3年(1277)豊前国宇佐八幡宮より分祀勧請したと伝えられ、以来地域の信仰を集めてきました。鎌倉の鶴岡八幡宮より伝わったと言われる神楽は、千葉県の無形民俗文化財に指定されています。

2 「記録之事」について

 紹介する古文書は「記録之事」と題され、縦24.3センチメートル、横157センチメートルの横に長い状形態の古文書です。江戸時代中期の享保19年(1734)に鶴峯八幡宮の「神主露崎若狭」によって記されました。内容は、中高根村の一部が久世大和守広之領となった慶安元年(1648)頃から、久世家3代(久世広之・久世重之・久世隠岐守(讃岐守とも))の武運長久・家内安全の祈祷を神主露崎氏が務めたことなど、鶴峯八幡宮及び神主露崎氏が久世家の繁栄に重要な役割を果たしたことを箇条書の形式で主張する「由緒書」ともいうべき内容となっています。久世広之は江戸幕府4代将軍徳川家綱のもとで側衆、若年寄、老中を歴任した人物で、寛文9年(1669)から関宿藩主となりました。市原市教育委員会『市原市史』中巻(1986年)によれば、鶴峯八幡宮は「関宿藩主久世大和守及び旧領主阿部氏等の崇敬篤く慶応3年(1867)まで代参が続けられた」というエピソードが紹介されています。ところが、久世大和守等と鶴峯八幡宮の関係を示す古文書は、これまで見つかっていませんでした。「記録之事」は、鶴峯八幡宮と久世氏との関係を、鶴峯八幡宮の神主がどのように認識しているのかが具体的に窺える史料なのです。
では、具体的に久世家と鶴峯八幡宮との関係について、「記録之事」にはどのようなことが書かれているのか、主な内容を以下に挙げてみたいと思います。

  1. 久世家御用人である後藤杢右衛門が信心を寄せた。久世家の世継が絶えた時に、願状をもって誓願したところ、久世家に若殿様が生まれた。久世家は諸願成就・皆令満足(仏が慈悲心で衆生の願いをすべて満足させること)を宝前に感謝・祈祷していたところ、寛文9年(1669)2月12~14日に神慮のお告げがあった。このことを「御前様」(久世家当主)は稀代の瑞験(めでたいしるし)であると感心し、久世家御用人であった後藤杢右衛門を褒め称えた。代参によって報恩謝徳をすべきだとして、2月下旬に小玉金兵衛と申す人が同行五人で鶴峯八幡宮へ代参した。雨で流鏑馬祈祷は延期となり、ようやく晴天となった3月15日に神楽を執り行った。その際久世氏は初穂銀を11枚捧げ、久世家子孫が永代に渡り八幡宮の氏子となった。久世家は武運長久・家内安全の御礼を永い間続けた。また、年始の御礼を神主露崎氏に務めるよう命じたため、久世隠岐守まで三代欠けることなく露崎氏が務めた。そのため、露崎氏は、久世氏から祝儀として目録と紋付裃や呉服をもらった。3月15日と8月15日に鶴峯八幡宮で祭礼を行うのは、この時から恒例となった。
  2. 久世大和守は当社八幡宮の守護の殿様であり、神慮の威光によって家は繁昌した。
  3. 8月15日の恒例の祭礼で神輿が出陣し、流鏑馬が行われるので、鞍を一式久世氏が寄進した。
  4. 八幡宮本社は先年(屋根の)葺替(ふきかえ)があったので、久世氏へお願いしたところ、金15両を下さった。宮は繁昌し、老若男女の群集となった。
  5. 洪水で大破してしまった八幡宮の前橋の修復のために久世氏が金50両を下さり、橋は見事に造立した。

 「記録之事」に書いてある主な内容は以上となっています。あくまでこれは江戸時代に鶴峯八幡宮の神主が主張している内容なので、実際に、久世家と鶴峯八幡宮及び神主がどのような関係を有していたのかは分かりませんが、久世家との結びつきを強調した内容となっていることは読み取れると思います。日本近世史の分野では、17世紀中頃から徳川家を頂点とする特定の政治権力・幕藩領主との由緒をもとに、身分特権を獲得あるいは自らの現状の立場をより強固にしようとする動きが、武士だけでなく百姓・町人など各層で見られること、この背景には、百姓・町人層の間にもイエ意識が広汎に成立していたことが想定されることが指摘されています(山本2008他)。18世紀中頃である享保19年に記された「記録之事」もこうした時代の動きの中で捉えられるのではないでしょうか。神主露崎氏は、久世家との関係を強調することで、より有利な立場に立とうとした、と見ることができそうです。
 もう一つ、この「記録之事」が書かれた時代として見落とせないのは、末尾に、「文化十三子年二月頼ニ付南(ヵ)へ写遣申候」とあるように、享保19年から82年後の文化13年(1816)に筆写したと記されていることです。19世紀は、各家や村の「由緒」をますます盛んに語る「由緒の時代」であると指摘されています(久留島1995)。これを踏まえると、19世紀の文化13年に「記録之事」が筆写されたのは、神社の由緒を自覚するきっかけがあった可能性も考えられます。
また、これまで、流鏑馬や神楽がおよそいつまでさかのぼって行われていたのかをうかがえる文字史料がありませんでした。「記録之事」によって、少なくとも江戸時代中期である享保期には祭礼が行われ、流鏑馬や神楽も行われていたことが分かりました。なお、この頃から祭礼が恒例となった、とも記されています。
 これまで、鶴峯八幡宮の縁起に関わる資料(史料)として知られていたのは、千葉県市原郡教育会編『市原郡誌 町村誌』(千葉県市原郡役所、大正5年)と市原市教育委員会『市原市史 資料集』近世編3上(2018年、815頁)に翻刻されている「宝暦四年(1754)三月上浣日 中高根七日市場村鶴峯八幡宮縁起」があります。これらの資料は、神社の創建に関わる内容を主としており、神社の歴史にとって重要な意味を有していることは間違いありません。「記録之事」と、これら他の資料を組み合わせて読み込むことで、鶴峯八幡宮と地域の歴史がより見え、神社の存在意義や文化財の価値がより高まっていくものと思われます。
 史料調査に際しては、鶴峯八幡宮 宮司露崎のり子氏、禰宜露崎忠正氏に大変お世話になりました。また、古文書を修補して読みやすい状態にしてくださった横山謙次氏にも大変お世話になりました。ここに記して謝意を表したいと思います。

鶴嶺八幡宮所蔵「記録之事」冒頭部分の写真

写真 鶴嶺八幡宮所蔵「記録之事」冒頭部分

3 鶴峯八幡宮収蔵「記録之事」(享保十九年、文化十三年筆写)翻刻

凡例

史料翻刻に際しては、以下に掲げる凡例に従った。
一、翻刻にあたっては、必要に応じて読点「、」、句点「。」、及び並列点「・」をつける。
一、漢字の字体は原則として常用漢字体を使用する。
一、改行・余白は原則として原文通りとした。台頭(高貴の人に関した語を、敬意を表して改行し、普通の行よりも高く上に出して書くこと)も原文通りとした。
一、変体仮名は原則として平仮名に直した。但し、助詞の江(=え)・茂(=も)・与(=と)・而(=て)・者(=は)・而已(=のみ)はそのまま残した。
一、脱字は、(~脱)と記した。
一、虫損・破損などで判読困難な文字は□(四角)と記した。判読困難な文字の推定は、その直後に(~カ)などと注記した。
一、誤字と思われる文字には、直後の( )(括弧)に正字を記した。

翻刻

一、往古御三代以前御当家
 久世大和守様慶安三寅年上総国市原
 郡中高根村御領地被遊候節、御用人
 後藤杢右衛門殿御検見に被成御出、当社
 米代山鶴峯八幡宮霊験新に有之由、
 彼之御仁被及御聞御深志に幸成哉、
 御家御世継絶候ニ付、当社 八幡宮江
 御願状を以御誓願に曰、御神慮之加護
 哉 若殿様御出生被遊、御成長之
 御守護 御十五之御時当社江御代参
 御誓願処に如何成、後藤氏罷去畢、時成哉
 久世(大脱)和守様御役替ニ付、御国替被遊候、
 若殿様日々御成長御十五に御成被成
 諸願成就皆令満足之御宝永前
 奉謝祷故に、寛文九巳年二月十二日ヨリ
 同十四日迄三日三夜神前夥鋪震動
 致し給ふ。神主露崎兵部不思儀に思ひ、
 本社江入神前伺処に寄謹成哉、生雅螺(ヵ)
 正しく弐ツ有之、何共疑敷存神保仕り
御神旨に曰、「天性成哉、深重之願書昼夜
御守神慮之明徳成哉。右に告給ふ雅螺(ヵ)
 永代宝物可成也」。告宣之御事神主
 兵部謀承、取物も取あへす、早速当
 御屋敷様江参上仕、右之次第言上候得者、
 御前様被及御聞、稀代之瑞験なり迚
 被遊御肝心、扨はさも有んや、後藤杢右衛門
 忠儀と言、実心寄持(奇特ヵ)之称美、然者後藤
 家内に必定願書可有之、相行見給所ニ
 無縦座敷天井に差検有之、則拝下シ
 御前様・御近習衆・神主兵部立会、願書
 奉拝見所、神慮之御告に少しも無違
 霊験難有示現やと御直参御拝礼
 可被遊儀不任御心誠乍略義代参を以
 報恩謝徳可申、即刻御近習衆被御召寄
 誰と申候内、小玉金兵衛殿と申御仁江被仰付
 思立日を吉日と定、二月下旬御道勢五人ニ而
 当社江御代参御参籠之所二、折節霖雨ニ而
 流鏑之御祈祷段々相延、漸々三月十五日に
 晴天に成 御祈祷湯之花□(四角)愈々建
 御神楽首尾好執行仕、御願成就為
 御初穂銀拾壱枚被奉捧 神前江殊更
 御子孫永代八幡宮之御氏子御加護ニ而
 傍々御武運長久家内安全之御札永々
 差上、且御年始之御礼神主可被相勤旨
 蒙仰を、仍而 久世隠岐守様まて
 御三代無御闕出勤仕候、為御祝儀御目録并
 御紋付之御上下呉服奉拝領候、別して
 正五九三ヶ月於 神前御祈祷無怠慢
 奉抽丹候御事
 附、三月十五日八月十五日に当社祭礼此時より恒例
 被成三千名之氏子不及申隣郷迄村信心崇敬群集
 成し給ふ
一、御二代以前之 久世大和守様当社
 八幡宮之御守護之 殿様是や御神慮之
 御威光によつて御家之御繁昌御門前ニ
 市をなし、御発明上より下迄万民ニ至迄
 耳目驚し候御事
一、御氏神山王御祭礼天榊乗り、上総国
 市原郡中高根村八幡宮之神主露崎
 兵庫之助と 久世大和守様御大老
 之節被 仰付、其上御装束被下置
 頂戴着用仕り、今以無異変相勤申候由
 偖、段々如此にて御年始等相勤申候
一、八月十五日恒例之祭礼にて御輿御出陣并
 御神馬弓箭之例御座候、随而御鞍一色御寄
 進被遊候事
一、八幡宮本社先年葺替ニ付、 殿様江
 御願申上候処、被及 御聞召、早速金子
 拾五両被下葺替修覆出来仕、則御祈(ヵ)
 申上候、其節別段御代参ニ而宮出繁昌
 老若男女群集仕候
一、八幡宮前橋御座候、前年洪水ニ而及大破
 神主自力ニ相叶不申、此段御願申上候処、
 御取上被成、金子五両被下置、橋遖造立
 出来仕候御事
一、八幡宮神官ニ付御訴申上御録目(原文傍注に「下上」とあり)
 弐両被下置、露崎内蔵助三年已前
 子十一月上京仕、神宮人官共首尾能
 相済申所、依而由緒如斯少も無相違
 申傳へ畢
右之通由緒にて露崎若狭迄神主三代
御家御繁栄と御代々相勤来り候事
委細分明に乍恐 御屋敷様御記録帳
可有御座と奉存候、愚随神職速ニ難申
上誠以目出度、以上

 享保十九年子ノ二月 神主露崎若狭
 又文化十三子年二月頼ニ付南へ
 写遣申候

主要参考文献

  • 市原市教育委員会『市原市史』中巻(市原市、1986年)
  • 市原市教育委員会『市原市史』資料集近世編3上(市原市、2018年)
  • 井上智勝「近世神社通史稿」(『国立歴史民俗博物館研究報告』第148集、2008年)
  • 久留島浩「村が「由緒」を語るとき」(久留島浩・吉田伸之編『近世の社会集団―由緒と言説』山川出版社、1995年)
  • 千葉県市原郡教育会編『市原郡誌 町村誌』(千葉県市原郡役所、大正5年)
  • 山本英二「日本中近世史における由緒論の総括と展望」『歴史学研究』847、2008年11月

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