ノート008墨書にみる食文化(1)「酒」【考古】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

高橋康男

はじめに

 上総国分僧寺跡から出土した墨書土器の中に「酒」と書かれたものがあります。墨書が書かれた土器の特徴から奈良時代後半から平安時代初頭のものと思われます。ここでは奈良時代から平安時代にかけての酒と人々のかかわりがどのようなものであったか見てみたいと思います。研究ノートというより、備忘録といったところです。

波紋が広がる水面の上に置かれた、所々ひびがあったり欠けたりしている赤茶色の器の土器の写真

上 問題の「酒」銘墨書土器
 8世紀後葉に使われた「杯」(つき)と呼ばれる器です。

木々を背景に広がる野原と、たくさん咲き誇る菜の花の写真

上 上総国分僧寺跡
 写真は七重塔跡。基壇の跡が丘状に盛り上がっています。

 魏志倭人伝には、「人性嗜酒」という記述があって、三世紀には我が国に酒があることが認識されています。同時に喪にあたり弔問者が「歌舞飲酒」する風習があることも記載されています。ただし、ここで書かれた酒が何を原料にして、どのような方法でつくられたのかは明らかではありません。
 酒といえばアルコール飲料一般を指す言葉で、今の世の中には様々な種類のアルコール飲料がつくられています。奈良・平安時代にはどのような酒があったのでしょうか。これまでのところ、我が国では古代の遺跡からの酒の検出例はありません。ちなみに、中国では紀元前7000年頃の遺跡から出土した土器の破片から醸造酒の成分が検出された例があるそうです。まずは、古代の文献の中から酒に関する記述を探してみました。

風土記と酒

 風土記は奈良時代の初頭に編纂された、各地の地名や特産物などを記した書物で、今に伝わるものは、常陸・播磨・出雲・豊後・肥前の五国のものだけです。それ以外に逸文として断片的に伝えられたものがあります。国ごとに編纂されたため、記述の仕方も不統一です。ここでとりあげる酒をキーワードとして国ごとの記載を比較することにどの程度の有意性があるか、不安が残るのは確かですが、ある程度の実態を示すものとして考えておきたいと思います。
 今に残る風土記全体を見渡した中では、播磨で酒にちなむ地名の記載が他の国に比べて目立ちます。常陸などでは、酒を飲む場面の記載はあっても、地名に結びつく例はありません。播磨では「酒殿」という記載が三箇所あり、他に「酒屋」「酒の泉」などの記載もあります。播磨国風土記に記載されている十郡中五郡に酒にまつわる記載があります。ただし、このうち印南郡の「酒の泉」については、鉱泉と考えられています。
 鉱泉と考えられているものは他の国にもあって、豊後国速見郡の「酒水」、肥前国基肄郡の「酒殿の泉」があります。これらの例からすると、私たちが現在考えるように必ずしも酒=アルコールというわけではないようです。
 先に触れた播磨国印南郡の酒の泉について、「百姓飲めば即ち酔いて相闘い相乱る」とあり、豊後国速見郡の酒水については、「用いて痂癬を療す」とあります。さらに丹後国風土記逸文に天女の作った酒について「一坏飲めば吉く万の病除ゆ」とあります。これは説話と言ってよい記述ですが、当時の酒にたいする考え方の現われと見ることができるでしょう。
 風土記には米を原料にした酒の造り方についての記載もあります。一つは播磨国宍禾郡庭音の村の記載の中にあります。「大神の御粮、沾れてカビ生えき。即ち酒を醸さしめて、庭酒に献り宴しき」とあって、携行用の食物の乾飯が湿ってカビが生えたので、それで酒を造って宴会をしたという内容です。もう一つは大隈国風土記の逸文です。少し長くなりますが引用します。「大隅の国には、一家に水と米を設けて村に告げ回らせば男女一所に集まりて、米を嚼みて酒槽に吐き入れて、散々に帰りぬ。酒の香の出たるとき又集まりて、嚼みて吐き入れし人等、これを飲む。名づけて口嚼みの酒と云う。」
 米から酒を造るには、まず米のデンプンを分解してブドウ糖にし(これを糖化といいます)、そのブドウ糖を酵母によりエチルアルコールにするという段階を踏む必要があるのですが、播磨の例は空気中に存在したコウジカビの作用によってデンプンの糖化がおこなわれ、大隈の例では唾液中に含まれるデンプン分解酵素のアミラーゼ、ジアスターゼの働きによって糖化されたと考えられます。
 微生物学や生化学の発展とともにこれら物質の変質過程や介在する微生物の実態が明らかになってきたわけですが、古代の人々にとってはさぞかし不思議なことと思われたでしょう。

底に酒と書かれており、所々ひび割れしていて欠けている赤茶色の器の土器の写真

上 墨書杯の内側
 「酒」と書かれています。酒を酌む器だったのでしょうか。

底に未(ひつじ)と書かれた、所々ひび割れて欠けている赤茶色の器の土器の写真

上 同じ土器の裏側
 ここには「未」(ひつじ)と書かれています。

左へなびくたくさんの薄茶色の稲と、左へなびくたくさんの緑の葉の写真

上 収穫間近の古代米
 古代の酒もこのような米を発酵させて造っていたのでしょうか。

青空を背景に建つ、白い壁に赤い柱、瓦屋根の尼寺中門に少しモザイクをかけたイラスト

律令政府と酒

木々の後ろに広がる薄紫色の夕焼けの写真

 律令政府が、酒に対してどういうかかわりをしたのか、次に見てみましょう。一つは、酒をつくる役所を作ったことがあげられます。造酒司(さけのつかさ/みきのつかさ)がそれで宮内省に属していました。藤原宮や平城宮で「造酒司」と書かれた木簡が出土しており、平城宮では造酒司の井戸も見つかっています。
 やや時期が下りますが、十世紀初頭にまとめられた延喜式をみると造酒司では様々な酒を作っていたことがわかります。経験の蓄積と技術革新があいまって、様々な種類の酒を作るにいたったということでしょう。逆に、多様な酒への欲求があったということかもしれません。
 次に酒を飲む側に対する律令政府の対応について見て見ましょう。養老令のうち僧尼令飲酒条に、僧尼の飲酒に対する規制が記されています。「凡そ僧尼、酒を飲み、肉食み、五辛服せらば卅日苦使。若し疾病の薬分に為るに、須ゐむところは三綱其の日限給え。若し酒を飲みて酔い乱れ、及び人と闘打せらば各還俗」とあります。酒を飲んだり、肉を食べたり、五辛(五種類の辛味のある蔬菜)を食べたら、苦使という罰を三十日受けるということです。この苦使というのは僧尼のみに科せられる刑罰で、その内容は経典の書写など仏への功徳となる労役でした。酒を薬として飲む場合は寺の三綱が飲む期間を定めることとなっていました。さらに、飲みすぎて乱れたり、俗人と闘うようなことを起した場合には、俗人にもどされることと決められていました。

 以上が僧尼に対する酒の規制です。では、一般の人たちにはどうだったのでしょうか。
 石川県の加茂遺跡から出土した?示札には次のような文があります。「田夫意に任せて魚酒を喫うを禁制するの状」「里邑の内にて故に酒を喫い酔い戯逸に及ぶ百姓を禁制すべきの状」。これは律令政府から来た禁令を加賀国が受け、それをさらに加賀郡から深見村へと伝え「路頭に?示」したものです。嘉祥二(西暦849)年のことですから、平安時代の初期のことです。この?示札には八つの禁令が記されており、それらはもっぱら農業に関する事柄です。飲酒そのものを禁止するのではなく、酒を飲みすぎて農業をおろそかにすることを禁じたものです。このような禁令がでるくらい、当時酒の影響が大きかったことの現れと見ることができます。
 この当時は宮中の造酒司は宮中の儀式や宴会で使う酒をつくり、庶民は自家醸造に励んでいたと考えられます。それが廃れるのは鎌倉時代に入って「酒屋の酒」が生まれてからのことです。

むすび

緑色の苔の上に酒と書かれたイラスト

 古代における酒と人とのかかわりについて、いろいろな場面で見てきました。風土記では記載に粗密はあるものの、各国で何らか形で酒に関わる記載のあることが認められました。律令政府は造酒司をおいて朝廷の酒造りを続けました。一方で庶民には飲みすぎて怠けることのないよう禁令を出しました。僧尼には飲酒自体を禁じました。
 さて、冒頭に紹介した「酒」の墨書ですが、僧の飲酒は禁止されていたはずです。それなのになぜ堂々と酒と書いたか。僧以外の人に振舞うためであったか。あるいは、あくまで薬としてあつかったのか。いろいろ考えさせてくれます。
 県内でも酒と書かれた墨書の出土例はいくつかあります。たとえば山田庄作遺跡からは「仏酒」という墨書土器が出土しています。神様にささげるお神酒に対して、仏様にささげる仏酒なのでしょうか。
 おそらく「酒」と書かれた墨書は量的には少ないものの全国的に出土していると思われますが、個人で網羅的に調べるのは困難な状況にあります。画像と釈文がセットになったデータベースがあれば、とも思います。毎日どこかしらで文字資料の発見がなされていると思いますが、膨大な資料の蓄積が活かされないのはなんとも惜しいことと感じたりします。

文献
  • 『風土記』日本古典文学大系 岩波書店
  • 『律令』 日本思想体系 岩波書店
  • 『延喜式』国史大系 吉川弘文館

そのほか国史大辞典(吉川弘文館)、Wikipediaに拠ったところも多い。

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