ノート009西野遺跡の烏帽子【考古】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

小川浩一

烏帽子とは…

黒い帽子を被った男性が肩を出して荷物を担いでいるイラスト

上 烏帽子を被る男(平安末期)『餓鬼草子』 模写

 烏帽子(えぼし)とは、冠(かんむり)から派生していると考えられ、文字どおり烏(カラス)のように黒い漆が塗布されています。平安時代以降になると、身分の貴賤にかかわらず、成人男性が被った帽子のことで、露頂(被り物をしていない頭を人前に晒すこと)は恥辱とされていました。
 ちなみに、烏帽子には、殿上人などが被る立烏帽子(たてえぼし)や、一般の成人男性が被る風折烏帽子(かざおりえぼし)・萎烏帽子(なええぼし)があります。また、武士が着用した折烏帽子(おりえぼし)などもあります。
 当初は布で作られていましたが、15世紀頃より紙に漆を馴染ませて強度を持たせた紙製の烏帽子が出現し、江戸期にかけて一般化するとともに、烏帽子の大型化に伴って、頭頂を剃り上げる月代(さかやき)の風が普及し、一般民衆に露頂が定着します。

西野遺跡の烏帽子

断面が台形の形をした彫り込みがされた沖積地の地面の写真

烏帽子が発見された溝
 画面上方の途切れた部分が出入り口と思われます。門などの施設は確認されていません。

 西野遺跡は、市役所のある通称「国分寺台」の台地から南西に下った養老川中流域を北に望む標高8メートルから9メートル前後の沖積地に位置します。そこで平成15年に調査された、鎌倉時代(12世紀末から13世紀前半)の溝の底面付近から出土しました。この溝は、幅2.2メートルから2.7メートル、検出長5.8メートル、深さ0.8メートルから1.0メートルほどで、断面は逆台形の、かなりしっかりした掘り込みです。南側が方形に途切れており、出入り口部分であったと思われます。通行中に風で飛ばされてしまったのでしょうか。

 烏帽子は、分解が進み、かなり脆弱で胎(絹布・麻布)は殆ど残っておらず、周りに塗布された漆に布の経・緯糸が転写されたものが残っているのみでした。

全体的に黒く、粒の細かい土や泥、粒の大きい土や泥が混在する土を接写した写真

烏帽子片の出土状況

上部は糸間隔が粗い経糸・緯糸が交差している様子、下部は糸間隔が細かい経糸・緯糸が交差している様子が写し出された漆の写真

上 烏帽子の内側
漆膜の裏面を写し、拡大したものです。ごつごつしたのが麻布の圧痕。細かいのが絹布で、良くしごき込まれた素材です。

 よく見ると、糸間隔の粗い麻布と、細かい絹布を貼り合わせていることがわかります(右写真)。ちなみに、絹・麻布の剥離が明瞭であり、かつ、麻布の胎がほとんど遺っていないことから、麻布の接着剤については、漆以外のもの、例えば膠(にかわ)質か、澱粉(でんぷん)質などの接着剤を使用していた可能性が考えられます。
 芯となる麻布は、1枚と思われます。そして、麻布の外面に絹布を貼っています。

 絹布の接着剤については、絹布の剥離が明瞭であること、絹繊維の圧痕が良く残っていること、絹布に良くしごき込まれた素材があることから、かなり充填性のある接着剤が使われたのではないでしょうか。漆質の素材だとすると、澱粉糊などをかなり混ぜていたのかも知れません。

電子顕微鏡で1000倍に拡大して撮影し、波打った凹凸や溝が写し出された絹布の絹繊維圧痕の写真と、電子顕微鏡で100倍に拡大して撮影し、平な断面と複数の溝が写し出された烏帽子内側の漆層の断面の写真
  • 左 絹布の絹繊維圧痕 電子顕微鏡で1000倍に拡大し撮影
  • 右 烏帽子内側の漆層の断面 電子顕微鏡で100倍に拡大し撮影
細かい糸間隔で経糸と緯糸が交差しており、漆層が2層見られる様子を接写した写真

上 烏帽子内側の漆面

 本来、麻と漆は相性がよくないのですが、烏帽子の強度維持のため、内側(頭側)に麻布を貼るとともに、外側(見える側)には漆の乗りがよく、生地が細かい絹布を貼り合わせたと考えられます。
ちなみに、内側(頭側)の面は、絹布無しで麻布に直接漆塗りを行っており(右写真)、漆層が2層見られることから、2回以上漆を重ね塗りしているようです。
 また、麻布の織り密度は、1センチメートルあたり12×18本程度で、糸はS撚り、材質は麻糸の断面(下写真の空洞部分)から苧麻(ちょま)布と思われます。

麻糸のあった空洞があり、その上部に一度目の漆層と二度目の漆層の様子を写した写真と、枝のような太さの糸状のものが画像の真ん中を横断している写真
  • 左 内側漆層の断面 100倍で撮影した画像を使用。
  • 右 内側の漆表面に見える麻糸圧痕 12倍の画像を使用。
細かい糸間隔で経糸と緯糸が交差している様子が写し出された漆の写真

上 烏帽子の電子顕微鏡写真
絹布痕の織り密度がわかります。

 一方、絹布の織り密度は、1センチメートルあたり38×50本程度でした(右写真)。そして、絹布にも2回以上漆を重ね塗りしていたと思われます。

他の出土烏帽子

烏帽子をかぶり、扇子を持って踊る着物を着た男性と、それに対面して座り、烏帽子をかぶり太鼓を叩く着物を着た男性のイラスト

 これまでに烏帽子が見つかった遺跡は、各地で数例あります。神奈川県平塚市にある坪之内遺跡では、古代末から中世にかけての井戸跡より、ほぼ完存の烏帽子が出土しています。形状から「立烏帽子」と考えられ、二つ折りの状態で発見されました。長さ30.5センチメートル・最大幅27.5センチメートルあり、生地はイネ科の植物繊維で、その上に少なくとも4回にわたって漆が塗布されています。他には、岩手県平泉町にある柳之御所跡や愛知県松河戸遺跡でも、溝状遺構から出土しています。ただ、科学的な構造分析を行った事例はあまりありません。ちなみに、西野遺跡に近い白山遺跡で発掘された14世紀ころの土坑からも、烏帽子と考えられる布状遺物が発見されています。これは今回紹介した烏帽子と比べ、構造的にほぼ一致することを、国立歴史民俗博物館の永嶋正春氏が指摘しています。

今後の展望

 今回の烏帽子は、地下水位の高い沖積地ゆえに、長期にわたって水漬け状態であったため、完全な分解・消失を免れて現代に姿を現しました。烏帽子の構造は、まだ解明されていないことが多く、今後の研究成果の進展が望まれます。

文献
  • 永嶋正春 2005年「西野遺跡出土の烏帽子片について」
  • 『市原市海上地区遺跡群』財団法人市原市文化財センター調査報告書第97集

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