ノート020「土公神」を井戸に封じ込めた遺跡【考古】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

田所 真

 「土用」と聞くと、鰻を思い浮かべる人が多いと思います。これは、夏の土用の丑の日に、精をつけるためにウナギを食べる習慣が定着したことによります。
 ところで、「土用」とは一体いつを指すのでしょうか。
暦の上で見ますと、一年間は、立春、立夏、立秋、立冬を境として、四季に分けられています。それぞれの季節の終わりの約十八日間を「土用」と呼んでいるのです。「土用」の期間は、陰陽道において、土を司る神さま「土公神(どくじん)」の支配下にある期間とされていて、「土用」の時期に土を動かすような作業を始めてはいけないとされています。もっとも、「土用」の期間であっても、「間日」と呼ばれる4日間の時には、作業をすることができるとも言われています。

円の中に1月から12月まで書かれていて、冬の土用は庭のイラスト、春の土用はかまどのイラスト、夏の土用は門のイラスト、秋の土曜は井戸のイラストが描かれている画像

図1 四季の土用と土公神の居所

 この「土公神」と呼ばれる神様は、遊行神であって一所にずっとはいません。平安時代の書物などを紐解いてみますと、季節によって居所を異にしており、秋には井戸に住んでいるとあります。平安時代に中国からもたらされた「陰陽五行説」の一つです。
 21世紀を迎えた私たちの暮らしの中でも、「井戸は埋めるものではない。」とか、「井戸を埋めるならば、節を抜いた竹を通して井戸神さまが息をできるようにしておかなければいけない。」とか言われます。これは、「土公神」をはじめとする、井戸に関わりのある神様が、地中深くの世界と地上とを行き交うのに、井戸をその通路として使っていると信じられているからです。
 ところが、井戸を埋める時に、この大切な通路をしっかりと塞ぎ、更には、神々を土器の中に封じ込めてしまった井戸跡が、市原市内の遺跡から発見されているのです。市原市山倉地先の池ノ谷遺跡です。この遺跡は、山倉の農免道路から福増清掃工場へ上がる道の下にあたっています。
 池ノ谷の井戸は、一辺0.8メートルの四角形をしていて、深さ2.5メートル弱の素掘りの井戸でした。恐らく、平安時代の前期ごろに鑿井され、使用されていたものと思われます。(図2_1参照)
 普通、井戸を使う時には、定期的に井戸浚いを行わなければなりませんが、この井戸では、そのような痕跡は認められませんでした。使っている間に、井戸の内部の土が地下水に溶けだして、ゆっくりと沈澱して溜まっていったようです。(図2_2参照)
 井戸の底からは、鉄滓(てっさい)とよばれる鍛冶などでできる滓(かす)の塊が出土していますので、きっと、鍛冶工房などが近くにあったことでしょう。井戸浚いを行うことなく、その役割を終わらせているところをみますと、短期的な使用目的で掘られた井戸であることがわかります。
 問題は、用事の終わったこの井戸を、その後、どうやって廃棄したのかということです。
調査の時点でも、井戸底から1.5メートルほどの深さまでは綺麗な地下水が湧いていましたから、水が枯れて廃棄になったものではなかったことがわかります。
 池ノ谷の人々は、この井戸の廃棄にあたって、まず最初に、井戸の所に直径2.3メートル、深さ1.3メートルほどの擂鉢状の穴を掘っています。掘った時の土が、井戸の中に流れ込んでいないのは、その時点で井戸がその深さ以上に埋まってしまっていたからです。擂鉢状の穴が掘り終わった時点で、たぶん地下水は、この擂鉢の底の方20センチメートル〜30センチメートルの深さで溜まっていたことでしょう。(図2_3参照)

土の断面がわかるように削られていて、その中に四角の角柱のようなものが3本飛び出ているのが写っている白黒写真

 発掘では、この状態の所に、土師器の坏を二つ合わせ口にした状態のものが、発見されました。二つの坏の口は、ピッタリと合わさっていて、中は空洞のままでした。千年の時を経ても、周りから土が入り込んだり、割れたりしなかったのは、これが埋まる時点で、きっと紐でしっかりと結びつけられていたからに違いありません。周りからも、完全な形をした土師器の坏がいくつか出土しています。これは、大変不思議な現象ですから、きっと何かしらのお祭りがここで行われたものであろうと、想像することができましたが、それが実際には何であるのかは、その後、長い間の謎となってきました。(上記写真ならびに図2_3の土器の図)
 その後、さまざまな遺跡で井戸の発掘調査が行われるようになり、また、調査研究も進んできました。その中で、池ノ谷の井戸のお祭りの内容を考える上で大きなヒントとなる調査事例が出てきたのです。
 その一つ目が、大阪府高槻市嶋上郡衙遺跡で発見された井戸の祭祀です。この井戸は、十世紀ごろに廃絶したようです。調査では、井戸底から、二点の土師器の皿が合せ口になった状態で発見されたのです。中を覗いてみますと、それぞれの皿に墨書がありました。
 「北方土公水神王、東方土公水神王、西方土公水神王・・・」と「天座大神 十二神」です。このことから、井戸に合せ口にして皿や坏を沈めるのは、「土公神」や「水神」「天座神」などの神々を封じ籠めるために行っていることがわかってきたのです。
 二番目の例は、平城京左京八条三坊三坪から発見された井戸の祭祀です。この井戸からは、斎串五枚を納めた合せ口の土師器皿二組が、ウラジロと一緒に、井戸底から発見されました。墨書はなかったのですが、斎串は祭祀に用いるカタシロですし、それぞれ五枚というのは、陰陽道に見られる五方五帝につながるもので、やはり、嶋上郡衙と同じような意味合いを持つことが想定されたのです。
 この他にも、いろいろな事例はあるのですが、以上の二例からみても、池ノ谷遺跡の合わせ口の坏は、「土公神」や「水神」を封じ籠める祭祀であったことがわかってきたのです。
 ところで、井戸をやめる時に、なぜわざわざ、井戸の真上に大きな擂鉢状の穴を掘って、ここで祭祀を執り行ったのでしょうか。
 擂鉢状の土坑の中に詰まった土を観察してみると、粘土土などと土器(坏や甕などの破片、鉄滓などの廃棄物)を混ぜて、一気に埋め戻しているようなのです。これは、井戸よりも大きな粘土の塊で、水がわき出てこないように重い栓をしているらしいのです。
 普通、井戸を埋める時には、節を抜いた竹などを刺して、「息穴」を作り、「井戸神様」たちが怒らないように、困らないようにするものなのですが、ここでは、神様たちを坏の中に封印をして、更に、井戸全体を擂鉢状の不透水土で栓をしたのです。絶対に、水神様などによる災いが及ばないようにしようとする強い意志の表れのようです。(図2_4参照)
 井戸に「息抜き」を作るのは、陰陽道などの中国からの思想によっています。しかし、日本古来の霊魂に対する対処の仕方は、横穴式石室などでもわかるように、封印をして閉じ込める方法がよく用いられます。池ノ谷遺跡のある市原市山倉の隣接には「海士」という地名が残されていて、上総国市原郡海士郷の比定地である可能性が高い地域です。
 このように考えてみますと、平城京や嶋上郡衙などの中央だけではなく、市原郡内の郷にも、中国からの新しい思想がやってきて、それが、古来からの封印という風習と合わさって、井戸の廃棄に関わる祭祀として執り行われていたことが想像できるのです。
 しかし、郷内の一般的な村の井戸でも同じように行われていたかどうかはわかりません。何故なら、池ノ谷遺跡はからは灰釉陶器や緑釉陶器といった、珍しい陶器類も発見されているからです。きっと、何か大事な施設を造るにあたって、池ノ谷の井戸は一時的に必要となって鑿井されたのだろうと思われます。その真相については、まだまだこれから考えていこうと思います。

1〜4まである井戸の廃絶に関わる祭祀までの模式図

図2 池ノ谷遺跡の井戸の廃絶に関わる祭祀までの模式図

  1. 井戸を作って使用しているところ。
  2. 井戸内部に沈殿土壌が溜まって、機能が低下しているところ。
  3. 井戸の廃棄にあたって、上半部を壊して擂鉢状土坑に合口坏を埋置したところ。
  4. 擂鉢状土坑を不透水質土で埋め戻して、井戸の栓としたところ。

参考文献

  • 『池ノ谷遺跡・福増遺跡』市原市教育委員会(1985年)
  • 鐘方正樹『井戸の考古学』株式会社同成社(2003年)

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