ノート019市原八幡宮と中世八幡の都市形成(1)【考古】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

櫻井敦史

はじめに

片側1車線の通りで、車道の両側に住宅が立ち並んでいる通りの写真

現在の房総往還と八幡の街道集落

 市原の八幡地区は近世の継立場として知られていますが、それ以前の様子はどうだったのでしょうか。
 文献史料や発掘調査による出土遺物、石造物などから、町場の成立期を14世紀第4四半期ころに推測することができます。
 都市空間の中核となったのは八幡宮で、現在鎮座する飯香岡八幡宮に継続します。たびたび文献に登場する「市原八幡宮」がこれに該当するものと考えられます。
 市原八幡宮の所在地については、市原台地上に推定する説もありますが(注釈1)、私はこれを、市原荘が成立した鎌倉後期から八幡・五所の海岸砂堆付近にあり、飯香岡八幡宮につながったものと考えています。さらには考古学的成果から、この立地が平安末期の「市原別宮」期まで遡る可能性も考慮しております。
 八幡地区が中世を通じどのような変貌を遂げたのか、町場形成以前の市原別宮・市原荘の動向も含め、数回のシリーズとしてまとめてみたいと思います。
 今回は歴史環境から見た八幡地区の重要性と、飯香岡八幡宮のルーツと思われる市原八幡宮の別当職を中心に、中世前期までの流れを文献史料から述べてみました。

市原北部の八幡浦・八幡・五所・五井・養老川・姉崎・現代の埋め立て地を示した航空写真

市原北部の航空写真 八幡・五井・姉崎は、房総往還の継立場として近世に発展していました。とくに八幡地区は良湾に面するため、水上・陸上交通の結節点として中世から町場が賑わっていたようです。

第1章 八幡地区の立地について

八幡地区の立地について示した地図

中世の八幡・五所図

 市原市は養老川の流域をほぼ占め、東京湾から山間部に向けて長く伸びています。
 上流域は急峻な谷が続きますが、下流域に向かうと平地面積が増し、広大な海岸平野に合流します。
 海岸線には砂堆列(右図クリーム色の部分)が育ち、平野部を肥沃な後背湿地にしています。この海岸砂堆列上には、いわゆる房総往還が通り(右図赤ライン)、近世には八幡・五井・姉崎の継立場が発展しました(上写真)。
 これらのうち八幡は、下総との国堺に最も近く、上総の玄関口として古くから要地であったと思われます。加えて前面の八幡浦は養老川と村田川の三角州に挟まれ、小湾となっており、五井や姉崎よりも湊に適した立地であることがわかります。近世において水運の拠点として繁栄したことも頷けましょう(注釈2)。
 市原の海岸地帯は昭和30年代以降、京葉工業地帯の一角として急速に埋め立てられましたが、それ以前の地形、特に八幡の砂堆列は、古代にはすでに安定していました(注釈3)。
 この地域は陸上・水上交通の結節点ですので、どこかに政治的な拠点が置かれた可能性は高いものと考えられます。八幡・五所の砂堆以外は低地になっておりますので、それなりの規模の居住域を確保する場合、どうしても選地は限定されてきます。現在鎮座する飯香岡八幡宮が、その前身社と思われる「市原八幡宮」時代から、この一帯に鎮座していた可能性を示す一つの根拠になるものと思います。

第2章 市原八幡宮のあゆみ

 ここからは、飯香岡八幡宮の前身社と思われる「市原八幡宮」の成立史を俯瞰してみたいと思います。

第1節 市原別宮について

 「市原別宮」は保元三年(1158年)「官宣旨」(『石清水八幡宮文書』注釈4)が初見で、平安末期に石清水八幡宮の宮寺領として、法印勝清(石清水八幡宮寺別当と極楽寺院主を兼務)が知行していたことがわかります。
 ここで言う「別宮」とは石清水八幡宮の所領形態を指し、在地の状況や石清水八幡宮との関連は明確でありません。ただし市原別宮については、13世紀初頭、中原親能の安居頭役対捍に関する相論が2点の史料から知られていますので、若干の推考が可能です。

  • 史料1 年未詳「北条時政書状」(『石清水文書』注釈4)
    安居頭掃部入道對押(捍)由事、以御書状申入候之處、被仰遣掃部入道之許也、件御教書獻上之候、他事以別帋令申候也、恐々謹言、
     正月卅日 遠江守(北条時政)在判
     八幡別當御房 御返事

 これは北条時政が石清水八幡宮別当に宛てた書状で、「安居頭掃部入道」の「対捍」に対し、幕府が掃部入道宛てに御教書を下したこと、その写しを(石清水八幡宮に)献上する旨が記載されています。
 安居役は石清水八幡宮の重要な神事役で、「安居頭」はその責任職と思われます。ここで論人(被告人)となっている「掃部入道」は、鎌倉幕府有力御家人の中原親能です。よって彼が安居役勤仕に何らかの責務を負っていたことがわかります。
 書状の宛先、つまり訴人(原告)は石清水八幡宮別当ですので、市原別宮の知行権は、保元3年以来、諸役も含め石清水八幡宮別当の相承対象であった可能性が高いと言えます。

  • 史料2 年未詳「鎌倉幕府御教書写」(『石清水文書』注釈4)
    (端書)右中辨殿御奉書加一見返上之候、
    八幡別當書状此如、安居頭事、令差宛上總國市原別宮預所之處、稱無先例、令對押(捍)給云々、去年上野國板鼻別宮預所左衛門尉景盛令勤仕了、其例在于近至、市原預所等、不可及對押(捍)歟、且自身之勤可在其障者、以代官無懈怠可令勤仕、有限神事不可默止也者、依鎌倉殿仰、執達如件、
     正月卅日 前右京進中原在判
     謹上 掃部入道殿

 先の書状が示す御教書そのものの写しです。
 幕府が石清水八幡宮別当の提出した安居頭対捍に関する訴状を受け、「市原別宮預所」の対捍を停止するよう掃部入道に命じた御教書です。
 市原別宮預所は(預所職が安居頭役を勤仕する)先例がないことを理由に挙げたことに対し、幕府は「下野国板鼻別宮預所左衛門尉景盛」が(同役を)勤仕した例を引き合いに出し、神事である上は、市原別宮預所らの対捍を「黙止」すべきでない、と親能に命じています。
 この史料はいささか難解ですが、中原親能を市原別宮預所職と見なすことが可能です(注釈5)。

 これまで紹介した史料から、以下のことが指摘できます。

 市原別宮は石清水八幡宮の所領形態の一つで、その成立段階から鎌倉中期にいたるまで、石清水八幡宮別当が本所として相承する領主職であったと思われます。
 13世紀初頭の段階では、別宮に対し八幡宮の重要神事である安居役の負担が割り振られ、その徴収は預所職の責務でした。市原別宮の預所は、中原親能と想定し得ます。
 一方、地元側では、安居役負担に「無先例」と抵抗し、現地荘官の利害を代表する押領主体が勢力を張っていたようで、結果として幕府を巻き込む相論へと発展しました。
 当時、京都守護職として在京していた預所中原親能は、安居頭負担徴収の責務を負っていたことから対捍の責任も問われることとなり、これを停止すべく御教書を受けたものと判断されます。
 地元の動向は明確ではありませんが、幕府が安居役負担の模範に挙げた上野国板鼻別宮の例は、預所安達景盛の上野守護という政治的立場ゆえになし得たものと言えます。市原には親能の代官が派遣されたようですが、幕府を巻き込む相論に発展する以上、荘官層の掌握は困難を極めたものと考えられます。
 こうした荘官層は地主職を留保する立場から、経営単位としての「市原別宮」内に拠点を持っていたのでしょう。当然石清水側も経営拠点が必要であり、現地には八幡宮が勧請されていたはずです。これを後述する市原八幡宮の前身社として評価したいと思います。

第2節 荘園鎮守としての市原八幡宮

 文献における市原荘の初見として、下の史料を挙げます。

  • 史料3 鎌倉末期「長崎高資書状」(『宝菩提院文書』注釈6)
    上総国市原庄八幡宮別当職事、御譲与大輔律師俊珎(鶴岡八幡宮僧)之條、披露候之処、無相違候、仍被成安堵候畢、目出候、恐々謹言、
    十二月十三日 (長崎)高資(花押)
     長崎彌次郎殿

 北条得宗家御内人長崎高資が、一族長崎弥次郎に宛てたもので、「上総国市原庄八幡宮別当職」が「大輔律師俊珎」なる人物に譲与されたことについて、(北条高時に)「披露」のうえ、安堵を得た旨を記載しています。

 この史料は、市原荘と市原八幡宮の発足についてのみならず、鎌倉幕府の勤仕僧政策にも関わるため、重要です。よって、留意すべき点を項目化し述べてみたいと思います。

第1項 市原荘と市原荘八幡宮別当職について

 史料3に見える「市原庄」は、「市原別宮」たる所領形態が変化したものです(注釈7)。鎌倉時代のある段階に、別宮から荘園を設立したのでしょう。
 史料で譲与・安堵の対象とされた「市原荘八幡宮別当職」は、「市原荘八幡宮」という荘園経営拠点の長官職を指しますが、職務というよりも、所領から上がる得分(収益)の取得権益として扱われているようです。
 ただしこの職に補任された人物は、一般の荘園領主より低い階級でしたので、いわゆる荘園本所職・領家職とは別の、中間的な職とみなすことができます。
 つまり市原荘の荘園領主は、市原八幡宮別当職の保有者とは別に存在したものと考えられます。市原荘が市原別宮から立荘されたとすると、石清水八幡宮が引き続き本所・ないしは領家職を保有していた可能性もありますが、この点に関する詳細な記録はございませんので、現状ではよくわかりません。
 ここで確実に指摘できるのは、石清水八幡宮の経営拠点として現地に成立していた八幡宮に対し、荘園の設立に伴い別当職も新設された、ということです。

1 幕府勤仕僧(鶴岡八幡宮供僧)による市原荘八幡宮別当職の保有

屋根に曲線を与えた流造(ながれづくり)で、柱や柵が朱色に塗られた鶴岡八幡宮の写真

鶴岡八幡宮

 史料3で市原荘八幡宮別当職を得た「大輔律師俊珍」は、『鶴岡八幡宮寺社務次第』(注釈8)に見える鶴岡八幡宮供僧です。
 さらにこの職を俊珍に譲与した人物は、先師である頼俊と思われますので、二人の経歴を以下に示しました。

  • 頼俊
     頼俊は寺門(園城寺)から関東下向した幕府勤仕僧で、鶴岡八幡宮千南坊を本拠とした。永仁3年(1295年)2月1日には同宮別当の頼助(注釈7)から社務職の補任を受け、正和2年(1313年)まで務めている(注釈8)。
     この職は最勝王経衆6名・大般若経衆6名・法華経衆6名・供養経衆6名・諸経衆1名、計25名の鶴岡八幡宮寺供僧からなり、善松坊・林東坊・仏乗坊・安楽坊・座心坊・千南坊・文恵坊・頓学坊・密乗坊・静慮坊・南禅坊・永乗坊・悉覚坊・智覚坊・円乗坊・永厳坊・実円坊・宝蔵坊・南蔵坊・慈月坊・蓮華坊・寂静坊・華光坊・真智坊・浄蓮坊の25坊が勤仕した(注釈6)。
     つまり社務職は各坊当主の嫡流相承対象と認めてよく、頼俊はこの補任に先立ち、千南坊を師の承俊(寺門)から相承し、五代目の当主になったものと言える。
     降って元亨2年(1322年)11月には、十六代別当顕弁により、先の社務職に還補された。顕弁は頼俊と同じ寺門僧で、金沢顕時の息である。別当就任始めとして頼俊を社務補任したところから察するに、両者は師資関係にあったのかもしれない。実際、頼俊の鎌倉における地位はこの後向上したようで、元亨4年(1324年)5月に御殿司職を兼務している(注釈9)。
     鎌倉幕府滅亡後の元弘3年(1333年)12月13日には、鶴岡八幡宮検校職の聖護院二品親王 (18代別当覚助)から同宮執行職に補任されるに伴い、社務職を嫡弟俊珍に譲与した(注釈8)。
     二品親王の関東下向は、北条一門の十七代別当有助が北条高時と共に自害した後を受け派遣されたものである(注釈10)。
     鎌倉に下着するのが12月11日なので、間もなく頼俊を執行職に補任したことになる。執行職は建久3年(1192年)からの設置で、源頼朝が初代の少納言僧都尊念に仁王経を勤めさせた由緒ある職であるが(注釈11)、覚助が下着早々に補任したところを見ると、新体制下の鶴岡八幡宮運営においても重要な職であったことが推測できよう。鎌倉幕府勤仕僧の再編を少なからず意識していたであろう覚助が、建武政権下において鎌倉幕府以来の供僧の系統をそのまま登用しようとしたことが窺われる。しかし頼俊は建武3年(1336年)5月17日に没している。
  • 俊珍
     頼俊の嫡弟俊珍も、鶴岡八幡宮の供僧として重きをなしたようで、鶴岡八幡宮付属坊の職を歴任する。
     まずは元亨2年(1322年)11月、鶴岡八幡宮脇堂である五大堂供僧職を、同宮第十六代別当顕弁から補任されている。
     元徳2年(1330年)には鶴岡八幡宮真智坊の僧として、同宮社務職を顕弁から補任されると共に、その灌頂を受け、顕弁との間に新たな師資関係を結んだ(史料12)。
     顕弁は元亨2年(1322年)10月28日に鶴岡八幡宮の十六代別当となっており(注釈10)、嘉暦2年(1327年)9月24日には、鎌倉に在りながら園城寺別当長吏に補任されている(注13)。
     宗教界の中心として幕府内においても力を持った顕弁との師資関係は、俊珍にとって幕府・園城寺双方の立場において非常に意味あるものだったろう。
     ちなみに真智坊の当主は七代目の聖瑜以来、東密僧が歴任するなかで、寺門僧俊珍の起用は異色であった。ゆえにこの補任は、顕弁と俊珍の個人的な師資関係において実現した可能性が強く、翌3年(1331年)4月23日に顕弁が没すると(注釈10)、新たな別当に立った有助(注釈14)により、4月28日には東密僧頼基と交代させられている(注釈12)。
     鎌倉幕府滅亡後の元弘3年(1333年)12月13日には、先師頼俊から社務職を譲与されている。ただし別当覚助が承認しなかったのか、正式な補任はやや遅れ、頼俊が没した直後の建武3年(1336年)6月、十九代別当頼仲(注釈15)によってなされた。
     康永3年(1344年)3月4日には鶴岡八幡宮御殿司職に補任されるが、やがて東密僧の元綱に千南坊の所職を譲与し、貞和5年(1349年)6月12日に没した(注釈8)。

 以上、『鶴岡八幡宮寺社務次第』に見える頼俊・俊珍の経歴を追いました、これを念頭におきながら、史料3の解釈に戻ってみましょう。

2 市原荘八幡宮別当職の成立と鶴岡八幡千南坊当主による相伝について

正面にしめ縄と紙垂が下げられた葛飾八幡宮の拝殿の写真

葛飾八幡宮(市川市)

 市原荘八幡宮別当職と同様の例として、下総国葛飾八幡宮別当職があります。同宮は市原荘八幡宮と同じく、石清水八幡宮別宮から成立した下総国八幡荘の鎮守社でした(保元三年(1158年)「官宣旨」 『石清水八幡宮文書』 注釈4)。
 正和5年(1316年)10月15日、葛飾八幡宮別当職に智円を補任する関東御教書があり(注釈16)、左馬権頭(執権北条高時)と武蔵守(連署金沢貞顕)が署名しています。この補任は、上智から嫡弟智円への相続を認可したものです(注釈10)。
 さて、上智は鶴岡八幡宮永乗坊を、智円は頓学坊(注釈17)を本拠とした寺門僧です(注釈10)。

 市原・葛飾両宮ともに、幕府勤仕の寺門僧が別当に補任されていること、彼らが鶴岡八幡宮供僧であったことなど、共通点の多さに驚かされます。
 石田浩子氏は、『醍醐寺日記』正応6年(1293年)正月10日条(注釈19)に見える幕府祈祷メンバーを、13世紀末の幕府祈祷主要人員として示しています(注釈18)。このことを念頭において鶴岡社頭における廿壇護摩を修したメンバーを確認すると、同宮別当頼助以下20名の中に、承俊法印(寺門僧)と上智法印(同)が列記されています。つまり両人は幕府勤仕僧の要員たる位置にあったと言えます。
 承俊・頼俊・俊珍の千南坊三代は師資関係にあり(注釈8)、「俊」を通字にすることからも、とりわけ強い相承意識が想定され(注釈20)、嫡流と見なせる俊珍も、幕府内において同様の地位を継承していたと容易に推測できましょう。
 上智が葛飾八幡宮別当職に補任された時期は不明ですが、幕府祈祷の要員であった正応から永仁期あたりに捉えて大差ないものと思います。彼の立場から、幕府祈祷による恩賞と考えるのが自然ではないでしょうか。
 幕府勤仕僧として同一の立場にあった千南坊承俊も、同時期に同様の祈祷賞を得ていたはずであり、市原荘八幡宮別当職もそれに該当するのかもしれません。
 さらにこの補任については、上智・承俊ともに正応6年(1293年)であった可能性があります。
 史料上窺える承俊の幕府祈祷勤仕は、上記の正応6年正月廿壇護摩以外に、同年実施の祈雨があり、祈祷の功績を賞する御教書が6月1日付けで下されています(注釈8)。さらに同年の永仁改元後は、鶴岡八幡宮御殿司として同宮の遷宮に供奉しています(注釈9)。

建物の両脇に樹木が植えられ、上層に「建長興国禅寺」の大扁額が掛けられている古い木造づくりの建長寺の山門の写真

建長寺 正応6年(1293年)に鎌倉を襲った大地震で甚大な被害があった。

 承俊の活躍はこの年に限定される印象さえ受けますが、その理由は、同年4月13日の関東大地震にあると考えられます。
 この地震は、人口の密集する鎌倉に甚大な被害をもたらしました。『醍醐寺日記』正応6年4月13日から29日条(注釈19)によると、将軍邸はおろか、鶴岡若宮、建長寺、大慈寺以下の寺社仏閣はことごとく転倒焼失、死者2万人余りに及ぶ大惨事となった旨が記されています。
 承俊の遷宮供奉も震災のもたらしたものですし、地震から間もない祈雨も、それと無関係ではなかったと思います。
 つまり正応6年(永仁元年・1293年)は、承俊・上智を含む幕府勤仕主要僧に対し、臨時的かつ大規模な関東護持祈祷の機会が提供された年であり、当然相応の恩賞が与えられたと見られ、市原・葛飾両宮別当職補任へと進んだ可能性があるものと考えています。

 以上で述べたように、市原荘八幡宮別当職は正応6年(永仁元・1293年)に承俊が祈祷賞として得た可能性があり、さらに嫡流の頼俊から俊珍へ相承したと捉えるものです。

3 別当職成立と幕府寺院政策の側面
 近年は、鎌倉後期以降における幕府の権門寺院政策の研究が積極的に進められており、幕府が権門寺院に対する強い影響力を発揮したこと、北条得宗が権門寺院の紛争調停者として位置づけられること、畿内権門寺院側も幕府権力の介入に依存する体制へと変化し、その内部においても、有力僧は幕府権力を積極的に利用したことなどが明らかにされてきました。
 勤仕僧は祈祷の恩賞として、幕府から僧官位や地頭職が普通に与えられていたこともわかってきています。
 上総国市原荘や下総国八幡荘に見られる荘園鎮守八幡宮の別当職も、まさにその実例と言えましょう。
 市原・葛飾八幡宮の例から察するに、荘園鎮守たる在地有力寺社別当職の設立自体が、幕府勤仕僧への恩賞対策と密接な関わりを想定でき、幕府の寺院政策としての側面を評価・検討する必要があります。
 実際に諸国における荘園鎮守の成立は、蒙古襲来後の寺社造営ブームに乗るものとの指摘もあり(注釈21)、鎌倉後期に画期が置けそうです。本稿で言う「荘園鎮守」とは、地域社会の核としての発展性を内在するもので、本所の経営拠点たるかつての市原・葛飾別宮とは、系譜を同一に置いても存在意義は異なるものです。しかし荘園制たる枠組みに包括される以上は、武家領主と並んで本所側の実質的な関与も見出しうるわけで、これに村落を加えた三者から成立する地域編成秩序の核として評価したいと思います。
 平安末期に成立した中世前期の荘園制たる荘園公領制は、鎌倉末期から南北朝内乱期に解体しますが、中世後期の荘園制が新たに再編され、戦国期の大名領国と自村落から構成される社会構造に置き換わるまで存続したものとされています(注釈22)。
 鎌倉後期における荘園鎮守の増加は、先に述べたように、単に本所側の経営拠点としてではなく、在地領主や村落住人が形成する地域編成秩序の新たな核の創出と評価するべき現象で、地域社会としての荘園の変化を示すものと言えます。中世後期荘園への移行期、上記のような歴史的発展性を示す荘園鎮守社に対し別当職を設置し、権門寺院との新たな関連付けを示す幕府の寺院政策は、その後の中世国家が依拠し、保護すべき、新たな地域編成秩序たる荘園再編の動きに連動するものと言えましょう。

4 市原荘の北条得宗領化
 石井 進氏は永仁5年(1297年)から元徳3年(1331年)年にわたる下妻荘大宝八幡宮別当職の関連史料(『大宝八幡宮文書』)を吟味し、大仏氏(北条氏一門)三代による安堵を明らかにしました。さらに別当覚舜譲状などの「大宝郷並八幡宮別当職」、「郷務并別当職」という記載に注目し、これらを大仏氏が安堵するのは「大宝八幡宮の支配権を握っていた」ためで、「大宝八幡宮別当職は大宝郷そのものの支配と不可分のもの」として、鎌倉末期の下妻荘自体を大仏氏の所領と推定しています(注釈23)。
 伊藤喜良氏と岡田清一氏は石井氏の成果を受け、市原荘八幡宮別当職の安堵を示す「長崎高資書状」が北条高時執事の書簡であることをもって、同荘を得宗領と推定しています(注釈24)。
 かつて私は、史料3の記載のみをもって北条得宗、あるいは長崎氏の市原荘に対する私的領知権は現時点で認定しかねるとし、市原八幡宮別当職譲与・安堵の流れは、幕府の勤仕僧政策として理解していました(注釈25)。
 しかしその後、財団法人千葉県史料研究財団により『観智院金剛蔵聖教目録』という史料が発掘されました(注釈26)。その中の観応3年(1352年)「将軍足利尊氏御判御教書写」には、市原八幡宮社領の「市原荘地頭職」が「長崎下野入道跡」であることが記されています。このことから、鎌倉末期の市原荘については、北条得宗領であったことが明確になりました。
 市原八幡別当職補任を幕府の宗教政策から理解する主旨に変更はございませんが、市原荘の成立・発展の中で、北条得宗領の果たした意味合いをもっと掘り下げる必要が出てまいりました。

左手にJR内房線があり、北条得宗領、足利氏領、金沢市領丸く囲い示した地図

有力御家人による市原北部の所領(鎌倉時代後期以降)

 いささか雑然としてきましたので、第2節の要点を以下にまとめておきます。

 鎌倉末期の史料に現れる市原荘は、石清水八幡宮の所領形態である市原別宮から成立しましたが、荘園領主は全く不明です。
 これまで石清水側の経営拠点であった別宮も「市原荘八幡宮」と呼ばれ、荘園鎮守、つまり本所・武家領主・村落からなる地域編成秩序の核として変貌しつつありました。これは荘園公領制から中世後期荘園制への移行に連動するものとして評価できます。別当職の設置については幕府の寺院政策の一環として捉えられますが、荘園制の変化を受け、これを体制的に再編しようとする幕府権力の志向性をも暗示しておりましょう。
 市原荘の領主については、鎌倉末期において御内人長崎氏の一族が地頭となっていることから、ある段階で北条得宗領に編入されたことがわかります。
 市原荘八幡宮別当職は、園城寺から関東下向した幕府勤仕僧の承俊に与えられ、嫡流である頼俊、俊珍へ相承したものと思われます。
 これについては、まず正応・永仁期の幕府祈祷要員として上智・承俊を検出し、市原と同系列の葛飾八幡宮別当職を上智が相承対象として保有していたことを確認しました。その事実に承俊・頼俊・俊珍三代の嫡流相承意識を加え、市原荘八幡宮別当職の相伝が承俊まで遡及する可能性を指摘しました。
 承俊の幕府祈祷勤仕は、関東大地震の結果、正応6年(永仁元年・1293年)に集中すること、上智も同様の立場から、関東護持として相応の祈祷を勤仕したことが想定されます。ゆえに、市原・葛飾両宮別当職が、この年の祈祷賞として承俊・上智に与えられた可能性を指摘しました。
 市原八幡宮別当職の設置と補任は、中央顕密寺院と鎌倉における勤仕僧を包括した、幕府の寺院政策の一環と解釈するものです。

 次回は中世後期荘園制下の市原八幡宮について述べていきたいと思います。

注釈

1 小川 信 2001年 『中世都市「府中」の展開』 思文閣出版
2 山本光正 1986年 「市原における水陸交通の整備と商品流通」 『市原市史』 中巻 第三章第五節
3 小杉正人・松島義章 1991年 「村田川低地における縄文時代の食糧資源の供給源としての海域古環境の復元」
『千葉市神門遺跡』 千葉市教育委員会 財団法人千葉市文化財調査協会
4 石清水八幡宮社務所 1935年 『石清水八幡宮史』 史料第五輯
5 石井 進 1984年 「関東御領覚え書」 『神奈川県史研究』 第50号 神奈川県史編集委員会編
6 財団法人千葉県史料研究財団 2003年 『千葉県の歴史』 資料編 中世4 千葉県
7 永和2年(1376年)「細川頼之奉書写」(『観智院金剛蔵聖教目録』(注釈26)によると、市原八幡宮が以前は「石清水八幡宮領」であった記述がある。
6 『鶴岡八幡宮寺社務職次第』 (鶴岡八幡宮所蔵本) 貫 達人・三浦勝男編 1991年 『鶴岡叢書』第四輯 鶴岡八幡宮社務所 所収
7 頼助は四代執権北条経時の息で、東寺に派遣された後、鎌倉に下向し、十代目の鶴岡八幡宮別当になっている(注釈6)。
8 「鶴岡八幡宮寺供僧次第」 千南坊 『鶴岡八幡宮寺社務職次第』 (鶴岡八幡宮所蔵本) (注釈6)
9 「八幡宮御殿司職次第」 『鶴岡八幡宮寺社務職次第』 (東大史料編纂所架蔵本) (注釈6)
10 鶴岡八幡宮寺社務職次第』 (東大史料編纂所架蔵本)
塙保己一 1932年 『群書類従』 第四輯 補任部 続群書類従完成会発行 所収
11 「八幡宮執行職次第」 『鶴岡八幡宮社務次第』 (鶴岡八幡宮所蔵本) (注釈6)
12 「鶴岡八幡宮寺供僧次第」 真智坊 『鶴岡八幡宮寺社務職次第』 (鶴岡八幡宮所蔵本) (注釈6)
13 『鶴岡社務記録』 前大僧正顕弁の項 貫 達人・三浦勝男編 1978年 『鶴岡社務記録』 鶴岡八幡宮社務所 所収
14 有助は北条一門出身の東密僧である。東寺一長者を務めるが、鶴岡八幡宮の十七代別当として元徳3年(1331年)4月26日に社務の補任を受けている(注釈10)。
15 頼仲は仁木師義の息で、東密僧として頼助の門下に入るが、醍醐寺地蔵院親玄から灌頂を受け、新たに師資関係を結んでいる(注釈10)。
16 正和5(1316年)年10月5日「関東御教書」 「相承院文書」 (鎌倉市史編纂委員会編 1958年 『鎌倉市史』 史料編 第一 二三三号)
17 相承院は応永期において、神武寺(相模国三浦郡)・松岡八幡宮(相模国鎌倉郡)・六天宮(同)・江島・大門寺・西門寺(鎌倉郡名越花谷)・聖福寺(鎌倉郡)・葛飾八幡宮(下総)・十二所権現・福相寺(下総)・鶴岡八幡宮神宮寺など、多数の別当職を保持している(註6及び、応永17年(1410年)5月2日「弘賢譲状」 『相承院文書』 (鎌倉市史編纂委員会編 1958年 『鎌倉市史』 史料編 第一 二五五号 参照)。
18 石田浩子 2004年 「醍醐寺地蔵院親玄の関東下向」 ─鎌倉幕府勤仕僧をめぐる一考察─
『ヒストリア』 第一九〇号 大阪歴史学会編 所収
19 『醍醐寺日記』 貫 達人・三浦勝男編 1978年 『鶴岡社務記録』 鶴岡八幡宮社務所 所収
20 三代の関係は園城寺において培われた可能性がある。出自は全く不明であるが、「俊」という通字から、血筋の上でも同族の可能性がある。
21 榎原雅治 1985年 「荘園制解体期における荘官層 ─東寺領矢野荘の一五世紀─」
同氏 2000年 『日本中世地域社会の構造』校倉書房 所収
22 工藤敬一 1975年 「荘園制の展開」 『岩波講座日本歴史』 五 中世一 岩波書店 所収
23 石井 進 1969年 「鎌倉時代の常陸国における北条氏所領の研究」 茨城県史編さん室 『茨城県史研究』 第15号 所収
24 伊藤喜良 1972年 「上総国中世史研究の二、三の問題点」 『地方史研究』 一一八号 地方史研究協議会 所収
岡田清一 1973年 「鎌倉政権下の両総 ─北条氏領の成立と御家人の動向─」 『國學院雑誌』 七四巻七号 所収
25 櫻井敦史 2005年 「市原八幡宮と中世八幡の都市形成 -文献・考古・石造物史料から-」
財団法人市原市文化財センター 2005年 『市原市文化財センター研究紀要V』 所収
26 財団法人千葉県史料研究財団 2005年 『千葉県の歴史』 資料編 中世 所収

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