ノート043龍性院遺跡と勝間龍性院瓦窯跡 -龍性院遺跡出土の寄贈瓦-【考古】

更新日:2022年06月02日

研究ノート

浅野健太

【はじめに】

 古代で瓦は、寺院や官衙(かんが)、宮殿といった格式の高い建物に葺かれていたため、発掘調査で瓦が出土する遺跡は限られます。国府が置かれ、上総国の中心地であった市原市は、千葉県内でも瓦の出土遺跡が多いことで知られますが、近年、勝間にあるお寺である龍性院(りゅうしょういん)境内で古代の瓦が出土することが明らかになりました。

 初めて龍性院境内で瓦が出土することを指摘したのは佐野彪氏で、古代寺院、あるいは瓦窯の存在を指摘しました(佐野2009)。この遺跡は龍性院遺跡とされ、古瓦が出土する遺跡として知られることになりました。さらに近年、龍性院境内斜面部の勝間龍性院瓦窯跡(かつまりゅうしょういんがようあと)では擁壁設置工事に伴う発掘調査が実施され、瓦窯2基を検出するなど、その実態が明らかになりつつあります(浅野2022)。

 龍性院遺跡は発掘調査が行われていないため、その実態は不明な部分も多いですが、佐野彪氏が採取した、龍性院遺跡出土瓦が令和4年度に市に寄贈され、これらの資料から龍性院遺跡と勝間龍性院瓦窯跡を検討することが可能となりました。

 今回は寄贈を受けた龍性院遺跡出土の瓦を紹介したいと思います

龍性院遺跡遠景、階段右側の斜面が窯跡

龍性院遺跡遠景。階段右の斜面が瓦窯跡。

龍性院遺跡出土の瓦

 今回寄贈を受けたのは総数68点の瓦片です。すべて破片資料で完形のものはありませんが、丸瓦(まるがわら)26点、平瓦(ひらがわら)40点、熨斗瓦(のしがわら)2点が確認できます。これらの瓦はすべて凹面(おうめん)に布目痕が残るため、古代の瓦であることが確実です。瓦が採取された場所は龍性院境内のほかに、龍性院の斜面付近のものもあるとのことなので、龍性院遺跡だけではなく、勝間龍性院瓦窯跡の資料も含まれるとみられます。

 丸瓦は小片のものが多く、詳細は不明ですが、ソケット部分に段をもつ玉縁式(たまぶちしき)のものが数点出土しています。一般に成形に手間のかかる玉縁式よりも、手間のかからない行基式(ぎょうきしき)の方が多いので、龍性院遺跡へ瓦を供給した生産地を考えるカギとなる資料です。

 平瓦も小片のものが多いですが、瓦を成型する際の凸面(とつめん)の叩きしめに縄叩きをするもの、格子叩きをするもの、平行叩きをするものの、大きく3種が出土しています。このうちほとんどは縄叩きのもので、格子叩きと平行叩きの平瓦はごくわずかです。

 また焼けすぎて発泡した平瓦や窯体(ようたい)の一部が付着した、平瓦も出土しています。このような瓦は瓦窯から出土することが多く、この瓦は勝間龍性院瓦窯跡が位置する、斜面部付近で採取されたものである可能性があります。

 熨斗瓦は平瓦を1/2か1/3に分割した、細長い形状の瓦です。主に屋根の棟部分に葺(ふ)かれました。龍性院遺跡で出土する熨斗瓦は、1点が焼成前の平瓦に浅い切れ込みを入れておき、焼成後に切れ込みに沿って分割するものと、焼成前に分割したものの2種類が出土しています。

丸瓦の写真

龍性院遺跡の丸瓦。左が玉縁式で中央が行基式。

平瓦の写真

平瓦。左が縄叩き、中央が格子叩き、右が平行叩き。

焼けて発泡した瓦

焼けて発泡し、窯体の一部が付着した平瓦。

熨斗瓦の写真

熨斗瓦。左が焼成前の平瓦に切れ込みを入れ、焼成後に割ったもの。右は焼成前に分割したもの。

熨斗瓦の側面。切れ込みが入る。

焼成前の切れ込みの痕跡。

龍性院遺跡の建物と年代

 龍性院遺跡で発見されている瓦は多くはありませんが、ここでは現時点の限られた資料から、龍性院遺跡の瓦葺き建物を検討してみます。

 龍性院遺跡で出土する瓦は丸瓦、平瓦、熨斗瓦のみで、文様を持つ軒瓦(のきがわら)が出土しておらず、国分寺クラスの本瓦(ほんがわら)葺きの建物があったと考えるのは難しいでしょう。ここで注目されるのは熨斗瓦で、この瓦が出土することから建物の棟部分に瓦を葺いていたと考えられます。熨斗瓦は2点しか出土していませんが、多くは平瓦を焼成後に半分に割ることで、熨斗瓦に転用したとみられます。このように加工された熨斗瓦は、破損した平瓦と区別がつかないため、実際には平瓦に分類した瓦のなかに、熨斗瓦として利用されたものがある可能性が高いです。同様のことは奈良県の平城宮でも指摘されています(清野2004)。

 以上のように瓦の出土量が少なく、軒瓦が出土せず、熨斗瓦が出土する特徴から、この遺跡の瓦葺き建物は、棟部分にのみ瓦を葺いた「熨斗棟(のしむね)」の建物だったと考えます。

 熨斗棟は棟部分のみに熨斗瓦などを葺き、それ以外はカヤや板、檜皮(ひわだ)等の軽い素材を葺きます。屋根全体を瓦葺きにする本瓦葺きと異なり、屋根が軽く、基礎部分の施工に手間がかからないのが特徴です。

 龍性院遺跡で出土する平瓦は、すべて粘土板一枚づくりという作り方の瓦です。これはかまぼこ型の台の上に瓦の大きさの粘土板をのせ、叩きしめる作り方で、国分寺創建に伴い、瓦の大量生産に対応するために導入した作り方で、国分寺創建期頃(741年)から上総国に広まるものなので、これ以降の創建と考えられます。また後述するように、9世紀前半の勝間龍性院瓦窯跡から瓦の供給を受けていたと考えられることから、少なくともこの頃には熨斗棟の建物が建てられていたと考えられます。

熨斗棟の模式図

熨斗棟の建物の棟(上原1997より転載)

龍性院遺跡と勝間龍性院瓦窯跡

 龍性院遺跡に熨斗棟の建物の瓦は、どこで焼かれたものだったのでしょうか。近年発掘された勝間龍性院瓦窯跡は、龍性院遺跡に隣接した立地であることや、出土する瓦の年代もほぼ同じです。この瓦窯で焼いた瓦が、龍性院遺跡に供給されたと考えられます。

 勝間龍性院瓦窯跡は、斜面の窯の断面を記録したのみの小規模な調査でしたが、半地下式登窯(のぼりがま)2基を確認しました(浅野2022)。出土した瓦はすべて小片で、丸瓦と平瓦のみですが、これらの瓦は焼きがやや甘く、ザラザラとした胎土が特徴で、龍性院遺跡でも似た特徴の瓦が出土しています。また平瓦の凸面に残された叩きの痕跡は、縄叩き3種類、格子叩き1種類、平行叩き1種類があります。龍性院遺跡でも、勝間龍性院瓦窯跡で出土したものと同じ3種類の縄叩き、平行叩きが出土していますが、同じ格子叩きは出土していません。また龍性院遺跡では、勝間龍性院瓦窯跡で出土していない格子叩きの平瓦も出土しているので、勝間龍性院瓦窯跡だけではなく、他の瓦窯からも瓦が供給された可能性があり、これらの瓦窯が勝間龍性院瓦窯跡よりも古いものならば、建物の造営年代をさらに古く位置づけることもできますが、資料が少なく今後の課題です。

 いずれにしても龍性院遺跡に瓦を供給するために、勝間龍性院瓦窯跡を設置したことは、龍性院遺跡の性格を考えるうえで重要です。瓦窯を設置するということは、薪の採取、粘土の採掘、粘土をこね、瓦を成形するための工房、瓦を作る工人、瓦を焼く工人といった人材、施設が必要で、これらを組織化し、管理することができるだけの造営組織があり、比較的長期にわたって、建物の維持管理がされたことになるからです。

勝間龍性院瓦窯跡の断面写真

勝間龍性院瓦窯跡の検出状況

勝間龍性院瓦窯跡の平面図

勝間龍性院瓦窯跡平面図

龍性院遺跡の性格

 では龍性院遺跡の性格はどのようなものだったのでしょうか。奈良・平安時代の瓦葺建物の多くは寺院か、役所である官衙(かんが)です。この点については、発掘調査を行わないとはっきりしたことが分かりませんが、少なくとも瓦窯を設置し、長期に渡る建物の維持を行うことができるだけの運営主体と、密接に関わる遺跡だったことが推察できます。

おわりに

 今回は寄贈を受けた瓦から、龍性院遺跡に熨斗棟の建物があったこと、その年代は国分寺創建(741年)以降で、遅くとも9世紀前半であること、勝間龍性院瓦窯跡を設置し、これらの施設、工人を組織化できるだけの機関を持ち、比較的長期間にわたって建物の維持管理がされたことを考えました。

 これはあくまでも採取瓦の検討からみた結論で、実際には熨斗棟の建物より古い、瓦を葺かない建物があった可能性も否定できません。これらの問題は発掘調査により明らかにするほかないでしょう。

 しかし今回寄贈を受けた資料は、勝間龍性院瓦窯跡で出土した資料数より多く、大変貴重な資料といえます。勝間龍性院瓦窯跡も含めたこれらの資料の検討を、今後も続けていきたいと思います。

 

参考文献

浅野健太2022「勝間龍性院瓦窯跡」『令和3年度 市原市内遺跡発掘調査報告』市原市教育委員会

上原真人1997『歴史発掘11 瓦を読む』講談社

佐野彪2009『ふるさと勝間村の歴史』

須田勉2002「国分寺と山林寺院・村落寺院」『国士舘史学』第10号 国士舘大学史学会

清野孝之2004「平城宮の熨斗瓦」『奈良文化財研究所紀要』独立行政法人奈良文化財研究所

鶴岡英一ほか2016『上総国分僧寺跡II』市原市教育委員会

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