菅原孝標の女の更級いちはら紀行 下総国境~八幡・五所2

更新日:2022年04月18日

上総国(市原市) 八幡 2006年7月29日

片側1車線の通りで、車道の両側に住宅が立ち並んでいる通りの写真

2(左上) 八幡の街並みに入ります。「八幡」という地名は、街に鎮座する飯香岡八幡宮から来たものです。町場景観は戦国末期から整備されてきたことが文献史料で確認できますが、その前段階として室町時代に成立した八幡宮の門前湊町を想定する意見もあります。江戸時代には継場として栄え、現在の街道風景につながっていきました。「継場」とは五街道以外の街道において、五街道の「宿場」に相当する交通業務を執り行う村や町のことです。多くが街道脇に軒を連ねる街道集落の形をとっていました。
 さて、孝標の女が通ったころは、このような街並みもなく、潮風爽やかな海岸砂丘の連なった自然風景でした。それでは、八幡のシンボルである飯香岡八幡宮は、いつ頃から鎮座しているのでしょうか。
 平安末期、市原の地に石清水八幡宮の別宮が経営されていたことが史料に見えます。市原別宮の勧請された時期は、孝標の女が亡くなって数十年内くらいの頃だと思います。さて、飯香岡八幡宮は、この市原別宮の流れをくむものと考えられています。別宮はどこに置かれたのでしょうか。台地上の市原地区なのかもしれませんし、八幡・五所地域の海岸砂丘上に推定する意見もあります。ただ、中世における八幡・五所地域の発展性を考えると、ここには孝標の女のころからすでに、何かしらの政治拠点があったのかもしれません。例えば孝標一行が上京を控え、一時的に滞在した国司別館と思われる「いまたち」なども、この地域のどこかだった可能性もあるのですが、詳しいことは解っていません。

駐車場にタクシーが数台停車しており、丸いアーチ型の屋根で上部が薄黄色のJR八幡宿駅の外観写真

3(左下) JR八幡宿駅です。千葉駅から安房鴨川駅を結ぶ内房線が通ります。写真の西口ロータリーには、飯香岡八幡宮の別当寺であった名刹霊応寺が栄えていましたが、明治維新時の廃仏毀釈で消失しました。
 ちなみに向こう側の東口には八幡御墓堂遺跡が広がり、少数の埴輪が流れ込んでいたことから、八幡宮近辺にも古墳があったと推測されます(下写真参照)。

「鼻、口、右目、入れ墨、右耳」の箇所を示している埴輪の破片の写真

(左) 御墓堂遺跡出土の下総型埴輪。下総型人物埴輪としては、市内で2例目の貴重なものです。人物像顔面の破片で、目の下に逆三角形の入れ墨を示す赤彩が施されています。耳は穴で表現するのみで、耳たぶやミズラを持たない像と思われますが、耳飾りは付いていた可能性もあります。耳周りのハケメを残しているのは、頭髪の表現なのでしょう。粘土板による顔面を貼り付けないタイプのようですが、顎の部分は解りません。
 この埴輪はどのような形をしていたのでしょうか。男性なのか女性なのか、全身像か半身像か。残念ながら詳しいことは解りません。下のイラストは、あえて無味乾燥に描いてみました。ちゃんとしたイメージは皆様の想像にお任せしたいと思います。
 遺跡からは、この他にも円筒埴輪の破片が数点見つかっています。

下総型埴輪の前で、菅原孝標の女がなるみに埴輪の破片を見せ、なるみが考えている仕草をしているイラスト

菅原孝標の女の顔イラスト(菅原孝標の女)なるみの顔イラスト(なるみ)次は文化財の宝庫、飯香岡八幡宮に参拝します。

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