菅原孝標の女の更級いちはら紀行 私も歩んだ?足下に眠る平安の夢路 東海道のさいはて、坂東の道

更新日:2022年04月18日

ミカンを食べて酸っぱい顔の菅原孝標の女のイラスト

菅原孝標の女

「なるみと申します旅の案内役を彼女と一緒につとめさせていただきます よろしくね」と案内するなるみのイラスト

なるみ

菅原孝標の女の顔のイラストなるみの顔のイラスト(菅原孝標の女)(なるみ)みなさん、こんにちは!
なるみの顔のイラスト(なるみ)シリーズの最初として、古代の道路を選んでみました。ご一緒に楽しみましょう!
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)楽しみ!そうそう、現代の交通事情、ものすごいことになっていますね。京都から五井まで、半日で着いてしまうんですもの!
なるみの顔のイラスト(なるみ)牛車より断然速いでしょう?(笑)。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)もう大変!冷凍みかん食べてる間に東京まで来ちゃって‥
 『更級日記』では市原から京まで3ヶ月もかけたんですよ。ああ、目まいが…
 やっぱり私は、花鳥風月を愛でながら、のんびりと車にゆられる昔ながらの旅が性に合っているようです。
 え?私のころの幹線道路? もちろんありましたよ。快適な旅には、よく整備された道路が欠かせませんからね。簡単に紹介しましょう。

五畿七道図

平安時代、日本の行政区分は、今の「都道府県」にあたる66ヶ国に分かれていました。これらの国々は「五畿七道」(ごきしちどう)と呼ばれる8ブロックにまとめられていました。上の図を見てください。薄茶色のラインが五畿七道の境界線です。
都周辺の国々は、大化の改新で「畿内国」と定められ、平安時代には大和・山城・摂津・和泉・河内の五畿が定着しました。
これ以外の国々は、東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道に区分けされました。「道」と呼ばれたのは、都から放射状に整備した官道に沿ったためです。上図の赤ライン(一部青)を見てください。この道こそが当時のメインストリート、わが国の大動脈であったわけです。
さて、各国には政治の中心たる国府が置かれました。各国の年貢などは、いったん国府でとりまとめてから都に運びます。地方の人々にとって国府は中央政府の玄関口というわけです。官道は、都と日本全土66ヶ国の国府を結ぶ流通ネットワークであり、その開発と整備は、古くから政府の重要課題として取り組まれてきました。
ちなみに関東地方は、上野(群馬)・下野(栃木)が東山道、相模(神奈川)・武蔵(東京・埼玉)・下総・上総・安房(千葉)・常陸(茨城)が東海道に入ります。上総国府にやってきた孝標の女一行は、東海道、上図の青ラインを往復したわけです。

桜の花に囲まれた、菅原孝標の女のイラスト

なるみの顔のイラスト(なるみ)そうそう、『更級日記』プロローグでは、上総国を「あづま路の道のはてよりも、なほ奥つ方」と紹介してるわね。「あづま路の道のはて」とは「東海道のさいはて」という意味で、古歌の歌枕にもあるから、常陸国のことでしょう? 直訳すれば「常陸国よりさらに奥地」となるけど、都から見て、上総は必ずしも常陸より遠いってわけじゃないわよね。どうゆうこと?
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)そこはそれ、私の「田舎育ち」を強調した文学的表現なのであります!
なるみの顔のイラスト(なるみ)あんまりイナカって言わないでよ。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)だって田舎だったんだもの! それが今じゃあ、帝(みかど)が東京におわしますとか!しかも国府でもないところに‥。私にはもう、何がナンだかさっぱり…。
 ごめんなさい、脱線しましたね。
なるみの顔のイラスト(なるみ)それじゃあ、上総国の周辺を見てみましょうか。

南関東の古代主要道

平安後期の南関東

菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)わあっ なつかしいなあ。私がいたころの関東地方です。「東国」とか「坂東」とか呼んでましたね。武蔵・相模・上総・下総・安房・上野・下野・常陸の8国がありました。
なるみの顔のイラスト(なるみ)今は東京・神奈川・千葉・埼玉・群馬・栃木・茨城の1都5県になってるわよ。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)これらの国々には政治の中心として「国府」という役所が置かれていました。
なるみの顔のイラスト(なるみ)今は県庁と言います。
菅原孝標の女の顔のイラスト(菅原孝標の女)時代が変わりましたねえ。

上の図を見てください。上総国のオレンジ部分が市原郡で、上総国府と国分寺があったのよ。父が上総介(国の長官)だった関係から、家族ぐるみで4年間ごやっかいになりました。

 東海道の本道は、武蔵国から常陸国に延びていきます。上総・安房国を結ぶ経路は、本道からの分岐道です。これを仮に上総における「メインルート」と呼ぶことにします。
 上図の赤丸が国府です。千葉県は上総・下総・安房の3ヶ国を占めますので、国府も3ヶ所ありました。当然国分寺も3つあります。上総国府は矢印の示すあたりです。
 もっと昔の奈良時代、上総国から都に上るには、直接東京湾を横断し相模国の三浦半島に上陸する海上ルートが取られていました。しかし宝亀2年(771)以降、武蔵国が東山道から東海道に編入されると、東京湾岸に沿って下総・武蔵を通り、相模湾岸に抜ける陸上コースに変わります。上の図がそのコースで、孝標の女も通りました。

 これらの古道は正確な位置がわかっておらず、そのルートも地域によっては幾つかの候補があり、断定できない状況です。本コラムは今後の継続分を含め、公益財団法人千葉県文化財センター 1994 『研究連絡誌』第41号 所収 大谷論文および『千葉県の歴史』通史編 古代2 の記述を参考に作成するものです(参考文献参照)。

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