花和田三山塚

更新日:2022年04月18日

江戸時代から(17世紀後半から)

花和田三山塚 はなわださんざんづか

三山塚の断面を横から見た写真

三山塚の断面と出土したかわらけ小皿

 出羽三山信仰によって築かれた方形三段築成の供養塚です。山岳信仰に相応しい独立した狭い丘陵上につくられ、頂部の標高は138.2メートルです。底面規模は縦23メートル、横21メートル、塚の高さは5.2メートルであり、大型の塚です。新井浄水場建設に先立ち、昭和59年(1984年)に本調査を実施しました。頂部には文政3年(1820年)銘の石碑が残されており、新井公民館前に移築しました.
 塚は、地山を1辺15メートル、高さ50センチメートルほどに削り出した「基壇」とも呼べそうな壇上に築造されています。壇の周囲には、幅30センチメートル前後の溝が6本巡らされています。塚の東側はすぐに斜面地のため、溝は全周していません。これらは設計図としての役割を持つものと思われ、現在のところ市内で唯一の検出事例です。
 出土遺物は、かわらけ小皿32枚、銅銭117点などです。壇の四隅にかわらけ小皿を配し、中央部でもかわらけと寛永通宝をもちいた地鎮祭の様子がうかがえました。その面で灰の分布も認められたため、火も使ったものと想定されます。塚の封土からは散発的に銭とかわらけが出土しており、穴を掘って銭を投入した状況が3か所で観察できました。
 出土した銭は、錆で銭文が不鮮明なものも多かったのですが、新寛永の背面無地(元禄10年以降)は認められません。背面が無地の新寛永は、元禄10年(1697年)から鋳造され流通することが判明しています。従って、この塚はそれ以前に築造されたことを想定できます。市域で塚を造り始めたのは、今のところ17世紀中頃(新生荻原野遺跡の一本松塚)と考えられていますので、花和田三山塚の築造は江戸時代17世紀後半とみてよいでしょう。同じく市域南部に位置する平野馬頭塚の出土銭にも同じことが言えます。
 基壇部分とその周囲には、縄文時代早期後半の集落が展開しており(新井花和田遺跡)、約8000年の時の隔たりはありますが、貴重な竪穴建物跡などを、この塚が守っていました。

財団法人市原市文化財センター 2001年 『新井花和田遺跡』

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