014新堀小鳥向遺跡の中世遺構群について

更新日:2022年04月18日

櫻井敦史

遺跡所在地

新堀

時代

南北朝・室町・戦国期

はじめに

 新堀小鳥向(にいほりことりむかい)遺跡の中世遺構群については、2002年に刊行された発掘調査報告書で詳細を記しています。報告書の考察をまとめると、以下のとおりです。

  1. 遺構群は15世紀を中心とした時期と捉えられる。
  2. これらは墓域を構成した可能性がある。
  3. この地域で操業していた中世鋳物師の生産遺構は認められないが、一定量出土した鋳造関連遺物群から、付近での操業は確実視される。


 しかし近年、報告書に記載した遺構の理解に一部の修正を加える余地が出てきました。当稿ではこれをふまえ、遺跡について再考してみました。
 まずは、遺跡の概略を眺めてみましょう。

穀倉地帯に臨む微高地上にある小鳥向遺跡全景を東から撮影した写真

小鳥向遺跡全景(東から) 穀倉地帯に臨む微高地上にあります。

1 遺跡の立地

 遺跡は、養老川中流域右岸の沖積平野に面した河岸段丘上にあります。標高は現地表面で22メートル前後を測ります。この段丘は沖積平野に沿って帯状に広がっており、新堀・武士などの集落が点在しています。背後の洪積台地はわりと急峻で、段丘面から30メートル以上の比高差があり、ゴルフ場や山林で占められています。一方、西側に臨む沖積平野は一面の水田地帯で、養老川による自然堤防上に中・近世以来の集落が点在しています。

2 歴史的環境

中世的郷村の成立

 中世の新堀地区周辺は、木更津・富津方面から上総国衙に通じる鎌倉街道が整備されていたものと推測され、養老川水運との結節地域でもあることから、交通の要所として発展をみた地域と考えられます。
 中世前期の文献史料からも、周辺地域の郷名が確認できます。「新堀郷」(1)、「武市郷」(2)、「海郷」(3)、「勝馬郷」(4)、「土宇郷」(5)などがそれで、ほぼ鎌倉後期の史料であることから、やや遡って13世紀前葉から中葉ころを中世的郷の成立期、ひいては耕地開発および村落成立の画期として捉えることができると思います。

上級領主について

 ちなみに、鎌倉後期の新堀周辺に得分権を持っていた上級領主は次のとおりです。

海郷・勝馬郷
 足利氏の所領で、被官の倉持氏が管理を世襲している(6)。

新堀郷・土宇郷・与宇呂保
 遺跡の所在する新堀郷は、建武5年(1338年)6月「上総国新堀郷給主得分注文」『金沢文庫古文書』により金沢称名寺の領知権が確認できるので、鎌倉後期は金沢氏(北條氏族)の所領であったことが推定できる。
 新堀郷より3キロメートルほど南方に位置した「与宇呂保」(現在の中高根一帯)も称名寺・金沢氏所領として知れる(7)。対岸の河岸段丘にある「土宇郷」も同様であり(8)、養老川流域が金沢氏及び称名寺の重要な経済基盤であったことが推測できよう。また、与宇呂保には、鎌倉の覚園寺末寺である淨住寺(現在の常住寺)が13世紀後半に建立されていることから、覚園寺も領知権を保有していたものと思われる(9)。

在地領主

 これらに対し、土地を直接掌握した在地領主の動向は明らかでありません。下流側では海士有木地区・村上地区の開発領主と思われる有木氏や村上氏(10)が史料に表れますが、「新堀郷」の地頭領主は不明です。有木氏や村上氏が足利氏に被官化したように(11)、新堀一帯の地頭領主も金沢氏の封建的配下に編成された可能性はあります。ちなみに鎌倉後期において、足利氏が上総守護職を世襲したのに対し、金沢氏は上総国司を歴任していますので、双方とも在地における政治的影響力は相当のものであったと推測されます。
 南北朝期においては、上記文献により、新堀郷の村落構造をわずかながら垣間見ることができます。建武5年(1338年)6月「上総国新堀郷給主得分注文」からは、村落構造が複雑化し、農民の階層化が進む中で、上級領主(称名寺)・地頭領主・国衙の得分がいまだ錯綜している状況を読み取ることができます。排他的所有権のあろう屋敷地を構える名百姓の存在も確認できます。
 室町期以降の村落の動向については、今のところ不明です。上記のごとき屋敷持ちの名主層などが小領主階層に成長し、自治的村落を形成しながら戦国期をむかえたものと想定されますが、東国における中世後期村落の推移については、考古学的にも未だ明確な段階ではないので、今後の研究の進展が期待されるところです。
 領主階級としては、近隣に大坪氏(12)・村上氏などの有力国人領主が確認できます。この両氏は、南北朝から室町期に、「使節遵行」と呼ばれる地方間の争いの調停作業に従事していることから、守護代使節ないしはそれに準ずる政治的立場を保持していたことがわかります(13)。戦国期になると、両氏は関東足利氏の伝統的被官という一種の貴種性を背景に、領域支配を貫徹させていったのでしょう。
 ただし、両氏と新堀郷との関連は不明です。
 戦国後期の養老川中流域は、戦国大名北條氏・里見氏の軍事境界線として緊張し、有木城(14)や分目要害城(15)が普請されていますが、民衆側の動向はよくわかっていません。

鋳物師について

 中世の新堀で特筆されるのが、鋳物師の操業拠点と推察されることです。先述した建武5年(1338年)6月「上総国新堀郷給主得分注文」で、新堀郷内に鋳物師・猿楽などの職能民の給免田があったことが確認できます。鋳物師に免田を給付したのは上総国衙と思われ、国衙に属する職人と見なしうることから、免田が新堀郷にあっても、操業は国衙付近の可能性がありました。しかし今回の発掘調査で一定量の鋳造関連遺物が発見されたことにより、免田の置かれた新堀の地で操業していたことが確認されました。これは重要な発見と言えます。貢納用の工芸品などを、地元で制作するよう奨励されていたのかもしれません。

3 報告書による遺構時期・性質推定の根拠

 ここからは、平成13年度に財団法人市原市文化財センターで発掘調査した部分について、述べていきます。
 調査対象面積740平方メートルに対し、整地遺構2面、井戸状遺構7基、火葬遺構2基、方形竪穴遺構8基、方形土坑16基、土壙27基、土坑13基、溝16条、ピット多数の検出が報告されています。これらは溝1条を除き、すべて中世の遺構です。
 報告書では、これらが15世紀を中心とした葬送空間を形成していたものと理解しています。その根拠は以下に示す通りです。

  1. 多くの遺構が人為的に埋め戻されていたこと。
  2. 方形竪穴状遺構は小型で住居などの用途が想定し難く、当時は葬送施設と理解されていた地下式坑と共通の利用形態が想定できたこと。
  3. 井戸跡の1基から骨片が出土し、人骨と推定されたことから、埋没過程で土壙墓に転用されたものと理解した。
  4. 火葬遺構が2基確認された。
  5. 土壙墓を思わせる円形土抗が分布し、宋銭の出土も見られる。
  6. 遺物は12世紀末から16世紀までの幅があるが、15世紀にピークが認められるため、遺構群もこの時期に中心を置くものと理解した。
  7. 小型の方形竪穴遺構の室状構造が地下式坑に継承されたとすれば、これに先行しつつ時期的に隔絶しない段階として、15世紀(古瀬戸後期様式併行期)と捉えることに矛盾がない。

4 一部の遺構の解釈について

 近年、報告された遺構の一部について、違った解釈を検討する必要があるのではないか、と考えるようになりました。以下にまとめたいと思います。

火葬遺構について

 確認された2基のうち1基は、T字状の形から、戦国期の火葬遺構と見なせます。しかしもう1基の10号遺構(報告書19頁)を火葬遺構とする積極的な根拠はありません。この遺構からは遺物が出土していないと報告されていますが、焼土中に大形の溶解炉壁片が1点含まれることが判明しました。
 遺構の周囲は被熱のため著しく変色しており、かなり高い火力を受けたことが想像されます。もちろん火葬遺構の可能性もありますが、むしろ銅の製錬に用いた吹炉跡と見なしたほうがよいのではないか、と考えています。遺構は掘形にシルト質砂を充填した上に構築されています。焼土層の下には、ササ・タケ類、ススキ類を主体とした灰層があり、防湿のために敷かれたのかもしれません。炉体が置かれたと思われる楕円形凹みの北側にはピットが隣接し、羽口を据えた痕跡の可能性があります。

T字状の火葬遺構の写真

T字状の火葬遺構。戦国期の典型的な例です。

矢印で焼土層と灰層が示された火葬遺構とした10号遺構(被熱遺構)の写真

報告書では火葬遺構とした10号遺構(被熱遺構)。矢印の示す部分に焼土層と灰層がありました。火葬遺構と断定する根拠はなく、鋳造遺構の可能性も考慮されます。

 仮に10号遺構を吹炉と見なした場合、ここで銅を製錬し、さらに別の甑炉(こしきろ)で溶かし直す必要があります。全体の調査で出土した溶解炉壁片群は甑炉の破片と思われますので、この近くに据えられていたものと考えられます。

井戸出土の骨片について

 井戸の1基(5号遺構、報告書12頁)から出土した骨片については、人骨として報告されていますが、ウシなどの大型獣であることが判明しました(16)。よってこのエリアを墓域とする有力な根拠の一つが消えたことになります。出土遺物には常滑10型式の片口鉢II類があり、井戸の廃絶祭祀に関わる可能性があることから、当遺構を15世紀と見なす点は問題ないでしょう。

方形竪穴遺構について

 報告では主要遺構全体を15世紀中心に理解していますが、遺跡全体から出土した陶磁器の型式からは、13世紀中葉から14世紀前半頃にも一定のピークを示すことがわかります(報告書57頁)。この点については、報告書も鋳物師の活動に関連づけて理解していますが、それに伴う遺構はないものと判断し、方形竪穴遺構群は葬送関連施設の可能性を重視しています。
 しかし、先に述べたように、銅製品鋳造の第一段階である製錬作業が調査区内で行われていたと仮定すれば、それに伴う遺構群も存在するわけで、方形竪穴遺構が該当する可能性を考慮すべきと思います。

2本から3本の柱穴が棟持様に直列している一辺1.85メートルほどの小型サイズの方形竪穴遺構群を真上から撮影した写真

方形竪穴遺構群。当遺跡のものは一辺1.85メートルほどの小型サイズで、住居とは考えがたいものです。それでも2本から3本の柱穴が棟持様に直列していますので、簡単な上屋を伴ったものと思います。

遺構規模が1.85メートルほどの古瀬戸水滴が出土した方形竪穴遺構の拡大写真

古瀬戸水滴が出土した方形竪穴遺構。

 ここで注目されるのは13号方形竪穴遺構(報告書21頁)で、遺構底面付近から古瀬戸中期様式I期(13世紀末から14世紀初頭)の水滴が出土しています。完形で、遺構に伴うことは明かですが、伝世してもおかしくない器種(17)であることから、報告書では遺構の年代を示す資料として重視しませんでした。しかし伝世品とする根拠も認められませんので、方形竪穴遺構群を古瀬戸中期様式期に併行するものと捉えた方が自然であると言えましょう。14世紀前半を中心とした運営とすれば、鋳物師の給免田が文献史料で確認できる建武5年(1338年)を含むことになり、矛盾がありません。その場合、先に述べた鋳物生産と無関係だったとは考えられないでしょう。作業工房跡の可能性を指摘できますが、遺構規模が平均1.85メートル程と狭いため、材料や燃料、備品などの収蔵施設だったのかもしれません。

古瀬戸水滴を中心に出土状況を撮影した方形竪穴遺構の写真

古瀬戸水滴の出土状況。

5 遺跡について再考

 調査区を含めた近隣一帯では、銅の製錬から溶解、鋳込まで、一連の鋳造作業が行われていたものと思われます。根拠としては製錬用吹炉の可能性が高い被熱遺構が検出されていること、溶解に用いた多数の甑炉片と、製品を鋳出す鋳型片が少量出土していることが挙げられます。
 方形竪穴遺構群については、古瀬戸中期様式期(14世紀前半中心)に併行すると理解し、現段階では、報告書で指摘した葬送施設の可能性よりも、鋳造作業関連施設の可能性を重視しています。しかし調査区内の一部が中世の墓域であった可能性も高いものに思えます。鋳物工房と墓域に時期差があったのか否かはよくわかりません。
 鋳物師の活動がいつ終息したかも明確にし難いですが、火葬遺構や土壙墓状遺構の分布から、鋳造作業場の一部が15世紀には墓域化したのかもしれません。遺跡からは瀬戸・美濃製品の擂鉢が見出せず、大窯製品も1点しか確認できませんので、墓域・工房を問わず、15世紀末頃には廃絶したものと推察しています。

註釈

  • (1)建武5年(1338年)6月「上総国新堀郷給主得分注文」『金沢文庫古文書』市史資料中世374
  • (2)建長8年(1256年)「法泉寺 観音菩薩立像 像底面墨書銘」『市原市内仏像彫刻所在調査報告書』−南部編−市原市教育委員 会発行、平成5年
  • (3)乾元2年(1303年)4月22日「足利貞氏下文案」『倉持文書』市史321
  • (4)永仁4年(1296年)3月11日「足利貞氏下文案」『倉持文書』市史310
  • (5)嘉暦3年(1328年)12月13日「上総国土宇郷内田畠等寄進状請取状案」『金沢文庫古文書』
  • (6)注(3)・(4)参照
  • (7)鎌倉末期「称名寺寺用配分状」『金沢文庫古文書』市史324に、与宇呂保の「上総女房御跡」が称名寺領として見える。
  • (8)注(5)参照
  • (9)観応3年(1352年)8月3日「上総国与宇呂保淨住寺祈祷料所寄進状案」『金沢文庫古文書』市史398に「上総国与宇呂保淨住寺安置千手像、為覚園寺之末寺、自草創至于今七十余年久修練行積年、」と見える。なお、「淨住寺」は現在の常住寺の前身で、常住寺境内には南北朝期の大型宝篋印塔・五輪塔があり、市原市指定文化財として周知されている。
  • (10)年未詳(鎌倉後期)「足利氏所領奉行注文」『倉持文書』市史364に、「上総国市東西両郡」足利氏所領の地下として「有木中務丞六郎 源民部七郎村上助房」が見える。
  • (11)注(10)から、市西郡内に根本私領を持つ両氏が、上級領主である足利氏の被官となり、足利氏は得分の一部を得ていたものと言える。
  • (12)応永24年(1417)10月17日「関東管領上杉憲基施行状」『上杉文書』市史537に「大坪孫三郎」とあるのが初見。
  • (13)注(12)で、関東管領上杉憲基が大坪孫三郎と佐々木隠岐守に、「皆吉伯耆守跡」(上杉禅秀の乱に関わる没収地か)を足利持氏御領所として打渡すよう下地遵行を命じている。皆吉伯耆守は皆吉地区(新堀地区より8キロメートルほど上流域)を本領とする国人領主と見られる。
    村上氏については、観応2年(1351年)7月16日「村上源清打渡状」『尊経閣文庫』により、沙弥(村上)源清・武田七郎三郎が市原八幡宮(現在の飯香岡八幡宮)別当職を醍醐寺の地蔵院僧正に渡すべく下地遵行を実施していることが知れる。
  • (14)(天正5年)(1576年)2月26日「里見義弘書状」『吉川文書』に、北條方の城として有木城が普請されたことが見える。
  • (15)櫻井敦史「分目要害遺跡」『千葉県の歴史』資料編 中世1 考古資料、財団法人千葉県史料研究財団編、平成10年
  • (16)上 奈穂美氏の御教示による。
  • (17)藤沢良祐氏の御教示による。

当遺跡の発掘調査報告書

  • 財団法人市原市文化財センター 2002年 『市原市小鳥向遺跡II』 財団法人市原市文化財センター調査報告書第77集
  • 市原市文化財センター・刊行物PDF一覧についての詳細は下記リンクをご覧ください。

この記事に関するお問い合わせ先

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