ノート044 描かれた船を読み解く -天神台遺跡出土絵画土器とその背景-【考古】

更新日:2025年01月14日

研究ノート

小橋健司

はじめに

市原市天神台遺跡の発掘調査では、船の描かれた土器が竪穴建物跡から出土しています。この土器は上部を失い、破片化した状態で、土層の中位から上位にかけて検出されました。竪穴の埋没がある程度進んでから遺棄された可能性がありますが、土器の下半部が細かく砕けておらず、また、下層出土土器の特徴とそれほど変わらないため、建物が機能した時期、弥生時代終末期(3世紀ごろ)に作られたものと考えられます。

市原市天神台遺跡出土の絵画土器(船)

天神台遺跡出土の絵画土器

絵画土器の特徴

土器は、表面を丁寧に磨き上げる仕上げ方から、貯蔵用の壺(つぼ)形を想定できます。特徴的なのは、底の中央近くに、小さな穴が焼き上げる前にくり抜かれていることで、この土器が日用品の容器でなかったことがわかります。船の絵は線画の一種で、底面の穴と同様に焼く前にヘラ状工具によって刻まれています。
右向きの船は、舷側(げんそく)(船べり)を表す上の横線が右端の縦刻線に向かい、2.4cm上の位置でカーブしてつながっています。その位置から船体側(左)へ横線をのばして、直角三角形に近い形をつくり船首を表現しています。船上には櫂(かい)(オール)と見られる1cm強の直線14本と、中央付近の柱から船尾(せんび)を向く、吹き流し状の旗と見られる並行線2本4単位以上が表されていいます。線の先後関係によると、船体→櫂・(柱→旗)の順に描かれたようです。櫂と柱については不明確ですが、櫂→柱の順の可能性があります。

市原市天神台遺跡出土船の絵画土器(拡大)

土器に描かれた船(天神台遺跡 弥生時代終末期)

市原市天神台遺跡出土の船の絵画土器(底面に開けられた孔)

天神台遺跡出土絵画土器の底面

弥生・古墳時代の船の絵

土器に描かれた船の線刻画は、弥生時代から古墳時代前期にかけて少なくとも50例が知られています(表「弥生時代から古墳時代前期における船の絵画土器一覧)(浅利1993、南部・菅2013、江野2014、深澤・南部・菅2014、藤田他2015、橋本2020を基に作成。天神台遺跡III発掘調査報告書より)。

最近の例としては、愛媛県愛媛市文京(ぶんきょう)遺跡12次調査(田崎2019)、広島県福山市神辺御領(かんべごりょう)遺跡第7次調査(梅本2017)、福島県南相馬市八幡林(はちまんばやし)遺跡第7次調査(川田他2015)で、それぞれ船と見られる線刻画の描かれた土器が発見されています。分布範囲を見ると、北部九州から中国、四国、近畿、北陸、東海、関東、南東北まで、海沿いの地域を中心に広く確認されています。数量的には、西日本の出土例が大部分を占めていて、三重県以東は10例が確認されているだけです。
分布状況に関して興味深いのは、分布域北東端にあたる福島県の八幡林遺跡例です。この資料は古墳時代前期前半の十王台(じゅうおうだい)式系と見られる土器に、浅い椀状の船体とその上側に櫂と見られる直線9本程度が描かれています(図E)。十王台式は弥生時代後期後半、茨城県北部を中心に作られた土器で、くびれのなだらかなプロポーションと胴部に施される附加条(ふかじょう)縄文が特徴的です。古墳時代前期には土師器(はじき)の影響を強く受けた形態になり、文様を失ったものが増加します。八幡林遺跡例の絵画は左側半分程度の残り具合で全体像は不明ですが、右側に船首や旗があれば、天神台遺跡例に近い表現と見られます。
南相馬市と東京湾岸の中間に位置する茨城県北部太平洋岸は、弥生時代終末期から古墳時代前期の間に房総を含む南関東系土器の影響が濃くなることが知られており、土器に船を描く文化も同様に、沿岸の在地系土器と共に房総半島を経て伝わった可能性を示しています。

岐阜県大垣市荒尾南遺跡出土の船の絵画土器

A:岐阜県大垣市荒尾南遺跡(千藤他1998 より)180度回転

千葉県富津市富士見台遺跡出土の船の絵画土器

B:千葉県富津市富士見台遺跡(椙山1993 より)

奈良県天理市東殿塚古墳出土埴輪に描かれた船の絵

C:奈良県天理市東殿塚古墳(泉他2000 より)

千葉県市原市天神台遺跡出土の船の絵画土器

D:千葉県市原市天神台遺跡

福島県南相馬市八幡林遺跡出土の船の絵画土器

E:福島県南相馬市八幡林遺跡(川田他2015 より)

静岡県浜松市三和町遺跡出土の船の絵画土器

F:静岡県浜松市三和町遺跡(佐藤1981ほか)

線刻画の特徴

天神台遺跡の船の絵と関係が深いと見られるのが、岐阜県大垣市荒尾南(あらおみなみ)遺跡出土例(図A)です。荒尾南遺跡例は3艘の大型の船を壺胴部に描いており、中央の船には、両側にイチョウの葉のような形の先端を持ち反り上がる船体と、82本の櫂、6本の柱から長さの違う布の並ぶ旗が表現されています。(図は土器の向きを180度回転したもの)。図右側の端部の方が大きく、高く描かれていて、これが船首と船尾の違いを表現したとすれば、右側が船首にあたるのでしょう。イチョウの葉のような形態は、丸太をくり抜いて作る、縄文時代以来の丸木舟(まるきぶね)の造形とはかけ離れていることから、準構造船(じゅんこうぞうせん)(丸木舟のへりに板材を追加した船)の長軸両側が高くなる船体と、幅のあるつくりの船首・船尾を描いたと考えられます。
佐原真さんの研究によると、荒尾南遺跡例等の船の原始絵画については、立体物を描き写す「写生画」、絵を描き写す「模写画」とは異なる、思い浮かべた心象(想像のかたち)を描く「イメージ画」と評価されています(佐原2001)。また、弥生・古墳時代には複数の視点からのイメージを合成した「多視点画」(佐原2001)を描いた可能性が高いため、イチョウ葉形は、準構造船の船首の形状を別角度のイメージの合成によって表現したものなのでしょう。大型の準構造船の舳先(へさき)を下から見上げた時、あるいは、船上から見た反り上がる船首へ続く舷側ラインの曲線を合成したイメージなのかもしれません。
天神台遺跡例の船体に似た表現の資料は、近辺では、静岡県浜松市三和町遺跡例(佐藤1981)(図F)、富津市富士見台遺跡例(椙山1993)(図B)、埼玉県朝霞市中道・岡台遺跡例(江原2016)が挙げられます。天神台遺跡例等の三角形の舳先は、三和町遺跡例を中間的な形態と見ると、イチョウ葉形から変遷したものと推定できます。三和町遺跡例は、天神台遺跡例と同じく、船首と船尾が非対称で、船首が近似する他2例も同様の可能性があります。また、富士見台遺跡例のハシゴ状の部分は、荒尾南遺跡例・天神台遺跡例との対比から、櫂を表現していると考えられます。
荒尾南遺跡例の旗は上下両側に描かれており、多視点の合成イメージと言えます(佐原2001)。同様に上下両側に並ぶ櫂も、両舷側に並ぶ様子を展開・合成して描かれています。この表現をふまえれば、天神台遺跡例の船体上に並ぶ14本の直線も、本来は下方(水面)に向かう櫂を、多視点画の工夫で上向きに展開して描いたのではないでしょうか。この上向きの直線が漕ぎ手、乗員等の人間を表現した可能性については、絵画土器の船に人物の乗る例はありますが、多数の櫂に対応する漕ぎ手が明確に描かれた資料は確認されていませんので、「多数の櫂」という表現、イメージが前提にあり、その省略形として直線列が描かれたと推測できます。人間ではなく、あくまで舷側に並ぶ多くの櫂を優先して表現したと考えられます。そうすると、中道・岡台遺跡例と八幡林遺跡例も同様の例と考えて良いのではないでしょうか。ただ、船体上に密に並ぶ縦線を、北前船(きたまえぶね)の蛇腹垣(じゃばらがき)のような役割で、船体側面に立て波しぶきを防ぐ「飛沫防具(ひまつぼうぐ)」とする見方(深澤2015)も提示されていて、単純な線画のモデルを限定するのは難しいことです。

荒尾南遺跡例の櫂の多さについては、実際の情景を描いた「写生画」ではないと考えられるため、人数を具体的に示すものではなく、絵としての船体に見合う数の櫂を描いた、または、想像上の船の大きさに応じた即興的な誇張表現なのかもしれません。天神台遺跡例も、船には多くの漕ぎ手がいる、というイメージを端的に描いたのでしょう。

船の描かれた背景

右に船首を向ける天神台遺跡例は、旗が左側になびいています。図のとおり荒尾南遺跡例も180°回転させると、同様に右へ進行し、旗が左へなびく様子が描かれています。どちらも停泊した船ではなく、進行し風を受けている様子が表現されています。
佐原真さんは、船上に立てられる器物と旗に関する古記録に、「雲の蓋(きぬがさ)」・「虹の旌(はた)」(常陸国風土記(ふどき))、「赤土」を塗った「天の逆桙(さかほこ)」(播磨国風土記逸文)、勾玉・鏡・剣を掛けた「五百枝(いおえ)の賢木(さかき)」を「舳(へ)(船首)と艫(とも)(船尾)」に立てた船(筑前国風土記逸文(いつぶん))等があることを示して、特に葬送(そうそう)の際に「赤籏青幡(あかはたあおはた)」等の旗がひるがえる場面(常陸国風土記逸文)の描かれることに注目し、荒尾南遺跡例について、「死者をあの世におくることと係わる可能性」を指摘しています(佐原1997)。また、深澤芳樹さんは、古代の世界観では、「海上でも陸上でもどちらにおいても、雲の蓋がひるがえり、虹の旗がはためくのは死者を安置した運搬具においてである」と指摘し、荒尾南遺跡例・天神台遺跡例・東殿塚(ひがしとのづか)古墳例(図C)を挙げ、旗のなびく「葬送船(そうそうせん)」のイメージを描いたと評価しています(深澤2012)。東殿塚古墳例はまさに墓に置かれた埴輪に描かれたものです。
それぞれの見解に基づくと、荒尾南遺跡例の影響を強く受けている天神台遺跡例も、葬送に関わるイメージとして船が描かれた事例と見て良いでしょう。焼成前底部穿孔(しょうせいぜんていぶせんこう)が行われていることを考え合わせると、葬送儀礼の一環として製作されたことが推定できます。

天神台遺跡の位置する国分寺台地区の遺跡から出土する同時期の土器には、伊勢湾西岸地域等、遠く離れた地域からの影響が認められます。この船の絵画土器についても弥生時代終末期において活発化した外来系文化流入の一つの様相として理解できるのではないでしょうか。

※本コラムは、小橋健司2023「SI1058出土の絵画土器について」『市原市天神台遺跡III』市原市埋蔵文化財調査センター調査報告書第58集、の内容を再構成し、加筆したものです。

引用・参考文献

浅利幸一1993「土器に描かれた船 -弥生~古墳出現期を中心として-」『市原市文化財センター研究紀要』II 財団法人市原市文化財センター
泉 武他2000『西殿塚古墳・東殿塚古墳』天理市埋蔵文化財調査報告第7集 天理市教育委員会
梅本健治2017『国道313号道路改良事業に伴う埋蔵文化財発掘調査報告(5)御領遺跡(第7次調査2013)』公益財団法人広島県教育事業団発掘調査報告書第77集 公益財団法人広島県教育事業団
江原 順2016『第31回企画展「小さな銅鐸を追って~銅鐸形土製品と小銅鐸~」』朝霞市博物館
川田 強他2015「八幡林遺跡(第7次調査)」『南相馬市内遺跡発掘調査報告書8 -平成23・25年度試掘調査報告-』南相馬市埋蔵文化財調査報告書第22集 南相馬市教育委員会
佐藤由紀男1981「浜松市三和町遺跡出土の線刻文土器について」『考古学雑誌』第67巻第1号
佐原 真1997「埴輪の船の絵と『風土記』」『新編日本古典文学全集5 月報40』小学館
佐原 真2001「弥生・古墳時代の船の絵」『考古学研究』第48巻第1号 考古学研究会
椙山林継1993「富津市湊富士見台遺跡出土線刻画」『宇麻具多』第5号 木更津古代史の会
千藤克彦他1998『荒尾南遺跡 -大垣環状線工事に伴う緊急発掘調査報告書-』岐阜県文化財保護センター調査報告書第26集 財団法人岐阜県文化財保護センター
田崎博之2019『文京遺跡VII-1 -文京遺跡12次調査-』愛媛大学埋蔵文化財調査報告XXVI-1 愛媛大学埋蔵文化財調査室
深澤芳樹2012「葬送船の記憶」『万葉古代学研究所年報』第10号 財団法人奈良県万葉文化振興財団 万葉古代学研究所
深澤芳樹2015「弥生・古墳時代の船、川を下り、海を渡り、空を翔る」『第6回青谷上寺地遺跡フォーラム 人・もの・心を運ぶ船 ~青谷上寺地遺跡の交流を探る~』鳥取県埋蔵文化財センター

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