ノート018市原市葉木城郭跡について(予察)【考古】

更新日:2022年04月18日

田中清美

1.はじめに

 市原市内には現在100箇所以上もの中世城郭が確認されています。江戸湾岸の湊を守る城郭である椎津城跡や大規模な山城の真ヶ谷城跡など広い市域に様々な地形を生かした個性的で興味深い城郭がたくさん存在しています。
ここではその内の市内北東部に位置する市津地区の葉木城跡を取り上げながら、市内の中世城郭のひとつの特徴を追って見ましょう。

 葉木城郭跡は、市原市葉木字舞台ほかに所在しています。東京湾に注ぐ村田川の支流大作川の上流部に位置し、湾の旧汀線からは約10キロメートル内陸に入った地点です。残念ながら発掘調査は行われていません。
この城郭跡は郷土史家には以前から知られていましたが、初めて公に紹介されたのは「葉木砦」の名称で落合忠一氏により昭和46年の「市原市遺跡分布表」に記載されてからと考えられます。
 城郭の立地がやせ尾根状の小舌状台地を利用し、施設の構成も小規模であるため、いわゆる砦跡として紹介されていました。その後、昭和55年に「日本城郭体系」が出版され、鈴木英啓氏により詳細な縄張り図が示されました。同氏は更に市原市文化財センター紀要で、小川(堀)に沿って台地中段に点在する家々は中世様式を整えており、城郭内に所在する妙見寺と妙見神社が千葉氏との関係を強く物語っている事実を説いています。また、小高春雄氏は平成11年に著書『市原の城』の中で「…踏査した限りでは城郭とすることに躊躇せざるを得ない。」として否定的であるが、中世的景観までも否定される訳ではなく、この点は後日の課題…」としています。

 さて、今回この葉木城郭跡を取り上げようとした理由は、「なぜ、村田川上流の奥深いやせ尾根に城郭遺構が存在するのか」という浅学の素朴な疑問からです。
市原市の大部分の城郭と同じように誰が何のために造り、どのような顛末がこの城にあったのかが一切不明であり、何とかしてその手懸りを探って見たいと思ったからです。小稿では幾つかの事実を取り上げて、葉木城郭跡を考察してみようと思います。
さて、現在市内に残っている城郭の遺構はほとんどがいわゆる戦国時代でも16世紀後半のものです。房総の地は、この時期、千葉氏・里見氏・房総武田氏・後北条氏などの勢力の狭間に位置しており、この市津地域は戦国末期は後北条方の土気城主酒井氏の支配地域になっています。
 因みに当地域は、酒井氏のいわゆる「七里法華」の信仰が盛んな場所でした。顕本法華宗に帰依していた土気城主酒井定隆が長享二年(1488年)に領内に改宗を発布したことによるもので、その宗派の寺院が多いことが特徴です。

葉木城跡・荻作館跡・小田部城跡・勝間城跡 ・犬成城跡 ・犬成迎山城跡の場所を紫色の丸で示している葉木城の位置図

図1 葉木城の位置図

1.葉木城跡 2.荻作館跡 3.小田部城跡 4.勝間城跡 5.犬成城跡 6.犬成迎山城跡

2.周辺の城郭等について

 先ず、周辺の城郭跡を見てみましょう(図1)。葉木城郭跡は、村田川の支流大作川上流部に位置し、村田川の河口からは約10キロメートル遡った地点にありますが、この地域は村田側の支流が幾重にも台地を刻み、その小谷が複雑に入り込んでいる地形を形作っています。このような地形の中で葉木城の近くには、小田部城跡・勝間城跡・荻作館跡があり、さらに周辺には、犬成城跡・犬成迎山城跡・高田城跡・中野城跡・押沼城跡・金剛地城跡などが存在します。

小田部城跡

小田部地区の現集落内にいくつかの郭や土塁などがみられます。

勝間城跡

大きな谷(館跡)を囲むようにその台地上に郭や堀切が残されています。

荻作館跡

字名に「御館前」があり、台地裾部に位置する満光院境内に郭状の平場が認められます。

高田城跡

北側に開く小谷が館跡と推定され、その上部の台地に大きな郭を配置しています。

中野城跡

土塁や虎口など小規模の残存のみの確認ですが、それら南側の平坦な台地に中世の墓域などの存在が確認調査により分かっています。

押沼城跡

村田川の左岸段丘を中心に郭や土塁などが認められています。

金剛地城跡

市内ではもっとも土気城に近く、大きな堀切を利用した虎口や土塁・郭が存在しています。

 これらの中で、高田城跡・小田部城跡・勝間城跡は、谷に館跡が存在し、その上部台地や斜面に郭を配置して、いわゆる主郭部とし、さらに奥の尾根部分は搦め手としての機能もあったと考えられます。
 また、特に犬成城跡は小規模ではありますが、郭や土塁、堀が良く残り「合横矢」(侵入者に対して横から射かける構造)が採用されています。この構造は千葉郡の土気城跡や大椎城跡、山武郡内の坂田城跡に存在し、その関連性が指摘されているところです。犬成城に関しては縄張りを中心にいくつかの研究があり、城の性格としては、土気酒井氏の築城とする考え(土気城の出城)や茂原街道を押さえるつなぎの城などの意見があります。また、隣接する犬成迎山城跡は城郭に否定的な意見もありますが、犬成城跡の補完的な機能をもっていたとも考えられています。

3.葉木城跡の縄張りについて

周囲に田んぼや民家があり、木々に覆われた葉木城跡遠景の写真

写真1 葉木城跡遠景(南側より)

 当城郭の縄張りについては、上記の落合氏と鈴木氏が示されていますが、それらの見解と現地踏査の結果を踏まえて再度ふれてみましょう。
葉木城跡は西から北に向かって張り出す形のやせ尾根に造られています。尾根の最大標高は約60メートルで、低地との比高は約25メートルを測ります。規模は東西約400メートル、南北約250メートルと考えられます。

手前に館跡推定地がある葉木城跡近景の写真

写真2 葉木城跡近景、手前は館跡推定地

 尾根先端の北側と裾部の南側と西側には虎口があり、郭も多数配置されています。
南西側の台地裾部には規模や形から館跡が存在した(III−1郭)と推定され、現在は葉木集落の一部となっています。その北東側の上部に現在の妙見神社と妙見寺があります(III−2郭)。
また、上部には葉木舞台古墳群があり、前方後円墳1基・円墳3基が確認されています。
それら古墳の盛土を土塁に利用したり、物見として再利用していた形体が窺えます。この尾根の西側をII郭、東側最高地点をI郭と推定しています。

左に妙見神社、右に妙見寺があり、鳥居がならんでいる写真

写真3 妙見神社(左)と妙見寺(右)

 北東側は急傾斜面となっており、郭などの施設は認められません。
丘陵の付け根方向にあたる東側は土砂採取などにより残存状態が悪いのですが、郭や堀切により主郭部と隔てていたと推定されます。
このように形態からは、葉木城跡は大作川の小谷が延びる北側から南西側方面を意識した造りになっています。
現在の丘陵を南北に貫く市道建設前には掘切りが存在していた可能性があり、明治期の地図にはその堀切りを利用したと思われる蛇行する道が書かれています。

 しかしながら葉木城跡は、他の城郭に比較するとやや規模の小さい城といえます。
また、III−2郭の丘陵中断にある妙見社と妙見寺の存在は千葉氏との関連性もうかがえます。
 さらに当城より上流部約1キロメートルの大作地区には平安時代末頃の薬師如来坐像が存在し、当時から有力な勢力が存在したことを物語っています。

4.まとめ

 以上、簡単に葉木城跡をみてきましたが、やせ尾根を利用した形態などから付近では国分寺台地区の根田城跡が比較的似ている形とも考えらます。それではなぜこの小さな城は造られたのでしょうかという当初の疑問に戻ってみましょう。
 地理的には葉木城跡は犬成城跡と同一の台地で西側約2キロメートルに位置するため、犬成城の西の抑え的な「出城」という見方が自然であると思われます。
 もうひとつは葉木村の「村の城」としての評価です。「村の城」とは、戦国の世に自分たちの領地である村を守るため、自衛手段として村ごとに城を造り武装して使用したものです。また、そこを拠点に武士たちが村落の維持と支配を行っていたとも考えられています。
 しかし、葉木城跡に関しては、地理的な位置関係から犬成城跡の補完施設としての機能も捨てきれませんので、「村の城」と「出城」の二つの機能をもっていた可能性を本稿では想定しておきます。
 造られた時期としては、戦国末期の里見方としての対後北条氏の頃か(田所2007年)、またはそれ以後の後北条方としての対豊臣氏の頃かと考えられます。また、妙見神社と妙見寺の存在は、当然それら以前に酒井氏の支配下で築城が行われていたことも伺わせます。
 また、自ずと小田部城跡・勝間城跡・荻作館跡など近接する城郭との有機的な関連性も捉えておく必要があり、犬成城の性格の研究とともに今後の課題です。

 市内には冒頭触れましたように、多くの中世城郭が存在していますが、椎津城跡などわずかな城郭を除き、ほとんどが発掘調査の結果などを含めた詳細な分析がなされておらず、中世後半を中心とする大きな課題のひとつになっています。
 今回は発掘調査がなされていない中で、古文書なども認められていないひとつの小城郭を縄張りや近辺の城郭との関係などわずかな資料により、その性格や造られた意義などを推測したもので、予察として簡単な考察を行いました。

参考文献

  1. 鈴木英啓 1993年 「私の考古学日記」 『市原市文化財センター研究紀要II』 財団法人市原市文化財センター
  2. 小高春雄 2002年 「45 犬成城跡」 『図説房総の城郭』 千葉城郭研究会編
  3. 小高春雄 1999年 「市原の城」
  4. 田所 真 2007年 「第三十七話 謎の城跡」 『房総及房總人』通巻865号 房総社
  5. 鈴木英啓1980年 「葉木城跡」 『日本城郭体系 千葉・神奈川』 新人物往来社
  6. 井上哲朗 1994年 「コラム 戦国の村と領主」 『房総考古学ライブラリー8 歴史時代(2)』 財団法人千葉県文化財センター

この記事に関するお問い合わせ先

市原歴史博物館

〒290-0011 千葉県市原市能満1489番地

電話:0436-41-9344
ファックス:0436-42-0133

メール:imuseum@city.ichihara.lg.jp

開館時間:9時00分~17時00分
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)・年末年始