ノート006養老川中流域の中世の遺跡【考古】

更新日:2022年04月18日

研究ノート

高橋康男

要旨

養老川中流域における、中世の様相について、発掘調査資料の紹介を通して、現状を概観します。市内全体でも中世資料の蓄積は徐々に進んでおり、国分寺台地区における中世の遺跡の実態も少しずつ明らかになってきています。ただ、総括できる段階ではないので、断片的な様相を提示するにとどめ、何らかの参考にしていただければ幸いです。

1 はじめに

 本稿のテーマは養老川中流域の中世の遺跡についてです。そもそも中世とはどういう時代であったか、大上段に構えた問題設定からはじめると、これは一口には言いがたいというのは今さらいうまでもないことと思います。消去法的にいえば、古代律令制がくずれてから織豊政権が成立するまでということになります。この約四百年の間を一括りするとなると、荘園公領制が核になります。本稿を作成するにあたっては、土地を巡る権利関係が複雑化、重層化していく経過や、武士・貴族・寺社と民衆との関係等これまでの研究の蓄積をフォローしていません。就職して間もないころ、中世研究をめぐって社会構成史の重視をかかげた安良城盛昭氏と社会史の重視を説いた網野義彦氏の論争を思い出しましたが、そんな論争があったことを知っている人も今では少なくなってしまったんだろうななどと、年寄りじみた回想をしながら、パソコンの画面に向かっている次第です。
 もちろん適当にお茶を濁すつもりはありませんが、少し気楽にテーマに沿って筆を進めさせてもらいます。
 ただ、考古資料は当該地域においては、かならずしも多くはありません。すぐに思いつくのは、新堀の小鳥向遺跡や西野遺跡の中世の遺構です。ここでは、最近発掘調査報告書が刊行された遺跡の中から中世にかかわる部分を紹介したいと思います。
 中世といえば、市原には多くの城郭跡がありますが、これについては別の機会に譲ります。

2 「今富保」

 中世前期の史料に「今富保」の記載のあるものが、壬生家文書の中に数点含まれています。急に「壬生家」と言ってもピンと来ないでしょうが、壬生氏は元は、小槻氏と称した中流貴族で「官務家」を世襲した家柄です。今富保も小槻氏の所領のひとつです。本拠地は今の滋賀県の栗東市あたりといわれています。上総との接点がどこにあったかというと、ひとつ考えられるのは小槻氏が上総国の役人になった時点です。12世紀の中ごろに小槻師経が上総介になっています。この師経の甥に小槻国宗がおり、今富保の開発に係わったことが壬生家文書に記載されています。
 一般に保は、古代末から中世前半にかけて存在した行政単位で、一定の領域と統治機能、農民を要素として持ちました。今富保の具体的な場所は確定していませんが、律令体制の弛緩にともない、現在の今富近辺に設定されたと考えられます。

今富保の場所に黄色い丸印がついている、航空写真

写真1 空から見た今富保 肥沃な沖積平野にあります。

 今富保は、官中便補保として建立されたものです。この官中便補保というのは説明すると長くなりますが、大体以下のように理解しておきます。(以下、国史大辞典に多くを拠っています。)
 まず、古代律令制のもと、太政官の厨房で、かつ諸国の公田(乗田)の地子を管掌した職司を太政官厨家といいます。略して官厨家・官厨・厨家ともいいます。『養老令』田令によると、諸国の公田地子は太政官に送って雑用に充てるとしており、延喜式段階ではその送り先は「太政官厨」と特定されています。地子は、米のほか絹、布、綿、鍬、鉄などのほかに海産物や紙などの雑貨も含まれています。このような諸品を財源とした厨家は、その機能として、

  1. 本来の職掌である厨房として食饌を弁備すること
  2. 地子米をはじめとする交易物を頒給、使用すること

にわけられます。
 厨家は太政官三局の官人の連帯責任で運営される建前でしたが、実務的に弁官局に密接な関係があり、さらに弁官局内の実務が大夫史(官務)に掌握され、ついで官務の地位が小槻氏に世襲されるにいたって厨家運営の実権もその手に帰したとされています。
 一見、安定した収入源が確保されているようにみえますが、すでに九世紀末段階で、権官や栄爵が激増し、その位田などに諸国の乗田が充てられるため地子が減少すると訴え、また国司が好んで地子田を租田に混合するのが、地子減少の原因であるとも指摘されています。安定的な収入の確保がはかれなくなったのをうけて、便補の荘保が設置されるにいたりました。
 国史大辞典に掲載されている官中所領一覧をみると、小槻師経の兄弟隆職や、その子国宗の時に開発したり本領主から伝領したものが目立ちます。今富保はこの親子の活発な活動の結果建立されたもののひとつです。
 小槻氏はのち壬生家と大宮家に分かれ、時として領地を巡って相論が起こっていますが、天文20年(1551)に大宮家が絶えたため、壬生一流に帰しています。
 安定的な収入を確保するために建立された今富保ですが、現在のどのあたりを想定すればいいのでしょうか。大字今富はかなり広い面積をしめていますが、その多くの部分は山林で、水田部分は必ずしも多くないと言えます。現在の景観や字境などがどのくらい古い時期までさかのぼるかは不明ですが、少なくとも現在の今富を含む周辺一帯が考えられます。
 保として存続した期間については不明ですが、国宗の三代後の有家が相論をおこしているところから鎌倉時代の前半くらいまでは、存続し壬生家の主要な所領だったことがうかがえます。

3 海上地区遺跡群

 古代の海上郡衙推定地を含む一帯は、道路の改良工事やほ場整備に伴う発掘調査に伴う資料の蓄積があります。昨年度調査報告書が刊行された海上地区遺跡群の中世の様相は、その報告書の中でまとめられています。
 それによりますと、中世遺物は大きく中世前期と後期に大別することができ、中世前期としたものでも12世紀中葉と13世紀中葉にピークがあること、14世紀中葉以降遺物がいったん希薄になること、その後再び一定の消費が認められ以後近世に接続することなどが指摘されています。
 さらに、西野地区の自然堤防上は、中世前期において、領主館や寺院に代表される地域編成秩序の核施設が存在した可能性が高いと指摘されています。このあたりに先述の今富保との関連が見え隠れしているような気がしますが、思い込みかもしれません。
 中世前期に存在したと思われる核施設の存続については現状では中世後期までは追えないとのことで、のち新たに成立する集村との関係は不明とされています。

広大な田んぼの中にある海上地区遺跡群(西野遺跡)の写真

写真2 海上地区遺跡群(西野遺跡) 中世の陶磁器類や烏帽子などが発見されています。

4 西広貝塚の中世遺構群

 西広貝塚の調査区内に中世の遺構群が存在したことや、中世遺物の様相が、整理作業を通じて明らかになりました。
 遺構については二軒の建物跡の存在が示されたことが注目されます。現場調査段階では中世遺構としては認識されていませんでしたが、整理作業の過程で柱穴の配置などとの関係から復元したものです。
 二棟の建物は一部で重複し、周辺の畝状遺構や溝などとの関連も指摘されていますが、同時性の検証の困難さは払拭できません。しかし、これまで存在の知られなかった中世遺構の存在が明らかになっただけでも貴重な成果ということができるでしょう。
 西広貝塚を含む国分寺台地区の遺跡の全容は整理作業の進展によって、次第に明らかになりつつありますが、中世全体を通しての様相を明らかにするには、もう少し時間が必要です。
 なお、遺物に関しては、中世以降近代にいたる陶磁器が333点出土しています。平安末から鎌倉中期の一群と、戦国から明治にいたる一群が報告されています。古いほうの一群は全体で四点で、あとは新しいほうの一群です。後者のなかで中世に位置づけられるものは約30点です。新旧二群の断絶期間は約200年と見られています。13世紀後半から14世紀いっぱいにわたる遺物が欠落しています。
 先述の海上地区遺跡群においても、十四世紀中葉にあたる遺物型式の減少・断絶傾向が指摘されていますが、類似した傾向が西広貝塚出土の中世遺物群でも見出されることとなります。たまたま類似した現象があらわれたのか、もっと広い範囲で共通する現象なのか、今後の整理の進捗を待ちたいと思います。

5 山倉古墳群の中世土壙墓

 多くの人物埴輪を出土したことで著名な山倉1号墳ですが、この古墳の前方部南隅の墳頂付近に、確実に中世の遺構として位置づけられるものとして、常滑の大甕を伴った土壙墓があります。

表面に模様が刻まれ、切り立った崖のようになっている山倉古墳群の写真

写真3 山倉古墳群 前方後円墳が1号墳で、谷の集落を見下ろせる地点に常滑蔵骨器を埋納した。

 一部に攪乱を受けていますが、長方形のプランで長軸約3メートル、短軸約1.3メートル、深度約1.3メートルをはかるものです。中心からやや東寄りに常滑大甕が置かれていました。さらに、この甕の中から人骨と銭が検出されました。人骨については、保存状態が極めて悪かったのですが、鑑定の結果、老年期女性人骨一個体分であることが判明しました。
 この大甕は、常滑市民俗資料館の中野晴久氏による編年の4型式に位置づけられるもので、中世の蔵骨器としては市内最古に位置づけられます。なお、同型式の生産年代は12世紀末から13世紀初頭と位置づけられています。ただし、日常品を転用したものとおもわれ、実際の埋葬の年代は生産の年代よりはくだることとなります。
 また、1号墳において一括して取り上げた遺物のなかには、常滑6a型式の壺が出土しています。これも蔵骨器と考えられ、この型式の13世紀中葉あたりが墓域の確立の時期かもしれません。
 なお、ここにふれた1号墳出土の甕・壺については、富豪農民層など村落内でも特定階層に関わる遺物と考えられています。

掘った穴から表面が見えている土器の写真

写真4 山倉1号墳の中世土壙墓

地中に埋まっている老人女性の遺骨と銭の写真

写真5 常滑蔵骨器内部 老人女性の遺骨と銭が見えます。

6 新堀小鳥向遺跡

 ここまで紹介してきた各遺跡の遺物の様相からは、14世紀代が全般に希薄であるような印象をうけます。
 そのようななかにあって、『金沢文庫古文書』の建武5年(1338)6月「上総国新堀郷給主得分注文」は、村落構造が複雑化し、農民の階層化が進む中で、上級領主や地頭、国衙の得分が錯綜している様子や鋳物師・猿楽などの職能民の給免田が認められる、文献史学上では貴重な文書です。また、同文書によって金沢称名寺の領知権が確認でき、鎌倉後期は金沢氏の所領であったことが推定されています。

広大な土地の一角が長方形の形に掘られた小鳥向遺跡の写真

写真6 小鳥向遺跡(2次) 溶解炉壁が多く出土したことから、中世鋳物師の活動が考古学的に証明されました。

 新堀小鳥向遺跡は、二度にわたり発掘調査が行われました。特に2次調査では、整地遺構面、井戸状遺構、火葬遺構、方形竪穴遺構、方形土坑、土壙墓など中世の遺構が多数重複した状態で検出されています。遺物は12世紀末から16世紀までと幅がありますが、量的には15世紀にピークがあり、これら多数の遺構群もこの時期に絞ってよいとの判断が報告者からしめされています。
 また、二度の調査ともに多くの土壙や鋳造関連遺物が出土しています。具体的には炉壁、羽口、鋳型、鉄滓などです。残念ながら鋳造遺構そのものは検出されませんでしたが、近隣で鋳造活動が行われていたことは確実と考えられます。
 先にふれた文献資料は14世紀前半で、発掘調査による15世紀を中心とした活動の時期とは一致しません。今回の調査は非常に限られた範囲のものであるため、近隣に、もしかすると文献と同時期の鋳造施設が存在したかもしれません。

7 若干のまとめ

 これまで見てきたように、養老川中流域には、散在的に中世の遺跡が存在することがわかってきました。遺物の時期では14世紀あたりに空白のある場合が多いことも、今回の資料作成を通じてわかりました。本文中でもふれましたが、これが偶然の一致か、全体的な傾向か、あるいは一定の地域における傾向であるかは、現段階では明言できません。今後の調査、整理の進捗をまって、よりいっそう市原の中世像が明瞭になることを期待するものです。

<市原市地方史研究連絡協議会 2006 『市原市東海・海上・三和地区の遺跡と文化財』より転載・一部改変>

参考文献

  • 財団法人市原市文化財センター 2005 『市原市海上地区遺跡群』
  • 市原市教育委員会 2005 『市原市西広貝塚II』
  • 市原市教育委員会 2004 『市原市山倉古墳群』
  • 財団法人市原市文化財センター 2000 『市原市小鳥向遺跡』
  • 財団法人市原市文化財センター 2002 『市原市小鳥向遺跡II』

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